幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(155)
其 百五十五
此女が女の身でありながら男子を翻弄して深い恨みを見事に晴らし、その一方で、自己の身を肥やしたしたたか者の女かと、島木は思わず凝とお彤を見やったが、胸の中に何を懐いているのか分からず、一目見ただけではそれほど恐ろしい人物という様子などまったくなく、ただ取りなしが巧く、賢そうなだけの普通の女にしか見えなかった。強いて人と異なるところを探せば、笑うことが少なく、緩く話すことに若干高慢気なところがあって、それが普通の人とは違っているように思われた。
筑波はただただ取り留めもない世の中の噂話を語って、その場を笑わせれば、島木もまた毒にも薬にもならない罪のない話をして、酒の下物とする中に、二人とも何時しか酔いが廻り、次第に声の調子も大きくなった。特に主人は遠慮無しののさばり切った物言いの強い口調で、
「マァ、何でも可い、慾と理屈を離れて酒という奴ぁ飲まなくっちゃぁ! およそ世の中に理屈っぽいのと慾ッ面を晒しているくらい野暮なものはありゃぁしないからナァ」
と、その言葉自体が既に理屈で、しかもその当人は慾っ面しか持ち合わせていないようなのにも関わらず、我は小さなことには拘らない大きな人間だみたいなことを親父めかして言えば、逆らいはしないけれども、島木は少しばかり人悪く、
「でも、どうも離れられませんよ、慾と理屈と、それから今一つは」
と笑って言う。
「ハハハ、正直で宜い! で、も一つとは何だ」
と言いかけたが、瞬間考えて馬鹿笑いに笑い出し、
「ご道理だ! ご道理だ! ハハハ、いや正直で宜い!」
と偉そうに笑って褒め、お彤をちょっと見て、
「ナァ……」
正直で宜いではないかという後の辞は言わずに言いかけたその様子は、ますます横柄で癪に障るほどである。
客に仕えるようにしているが、実際にはただ主人に仕えるのを主とするようなお彤は、こう話し掛けられて、微かに笑いを含んで、それを答えとしたのか、黙ったまま物を言わず、僅かに眼を挙げて下手に対い座っているお富を見れば、お富は心得て酒を執って客に薦めた。
「ナァ、宜いじゃぁないか。慾と理屈と、それからもう一つ、色気にゃぁ離れられないというのだが、どうも正直で宜いじゃぁないか。人間はそんなものかなァ。しかし、色気もこうなっちゃ敵わんナ」
と態と豪快がって毛の薄くなった頭に手を近づけ、
「アハハハハ」
と、大きく笑うのも逆に大いに色気があるのを示すというもの。
島木は本当に可笑しいと思ってか、これにも笑いを浮かべながら、なおも人悪く、また一言、
「と仰ってもまだご卒業という段におなりだとは認めては進げられません。ハハハハハハ」
と戯れれば、
「ハハハ、こりゃぁ褒められたのか、冷やかされたのか分からんが、まぁまぁ色気なんぞは卒業しないに限るかも知れないナ」
と、これは確かにそう思って言った言葉のようである。
「そうですとも! いや、これはご名論、真に正論でしょう、違いありません」
「ハハハ、卒業した日にゃぁ直に変なものになってしまうのだからネ。ヤ、色気といやぁ、オイ、彼女はどこかへ行ったのか?」
その人物がいるかのように呼びかければ、問われたお彤はお富に向かって、
「お龍に来るようにって」
と、軽く命じた。
つづく
 




