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幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(153)

 其 百五十三 用心


 自分の思いがしばしば人に誤解されることがあると考えると、人の話すことを聞いても、そのまま直ぐにそれを信じてはいけない。まして、好きなら、褒め過ぎだと分かっていながらも褒め、憎ければ(おとし)め過ぎだと思っていなくても貶めてしまう。しかし、そういう気持ちが去ってから後、そのことを振り返ると、あの時そうしてはいけなかったのだと、きっと自身で認めることになるものである。伊東の話の通りなら、筑波の(めかけ)彼女(かのじょ)は世にも稀な恐ろしい曲者(くせもの)ではあるが、(にく)んで言う人の言葉は、その悪言(わるくち)の十の七までは真実(ほんとう)だとすべきではないし、好きで言う人の言葉は、その讃辞(ほめことば)の十の三までは真実(ほんとう)だとすべきではない。好きでもなくても、憎くくなくても、世の人というのは他人(ひと)のことを悪く言うものだから、彼女もおそらく伊東が言うような人物ではないのだろう。伊東が知っている男というのは明らかに彼女の敵であるので、その口から出たことは十の(うち)九まで信じ難く、しかもその(わる)いところは男の方にあり、女の方には無いようにも聞き取れる。仮に彼女の報復(しかえし)手段(てだて)が小憎らしいまで、細工し過ぎの、甚だしく陰険で毒々しいものであったとしても、むしろその男の所業(しわざ)の方がもっともっと酷く残虐だったことの報いだとして、(ゆる)してみたくなる気もするのである。

 それにしても伊東の(はなし)大概(おおよそ)が事実であれば、思った以上に(すぐ)れた女で、男でもなかなかそういう人物はいないと言うが、伊東の(はなし)のように、陰で財を蓄えて、何時(いつ)筑波から離れたとしても、安心して一人立ちして生活できるようにと、自分の身の始末がすでに出来ているというのだろうか。(いや)、あるいはまたそれ程のことをしておきながら、どういう気持ちで引き続き筑波の(こころ)を受け入れ、気を取る身となって、可厭(いや)とも思わず月日を過ごしているというのか。今以上にもっと財を蓄え、富を得ようと考えてのことか。はたまた、今は筑波を(いと)わしいと思わなくなったのか。そもそも上に父無く母無く、下に子は無く妹弟無く、これまで相応(ふさわ)しい縁の男も無い、世にも淋しい一人身をどうやって暮らそうかと、そればっかりに心がとらわれ、智慧を使って来たのか。とにかく納得の行き難い所が幾つもある女だ。味方にして頼もしいかどうかは分からないが、反対(むこう)に廻すと面倒な奴に違いない。自分の今回の企画(もくろみ)を思い立ってから、口惜(くちお)しいけれども、まだ名も知られておらず、資本(もと)も無く、ようやく昨日今日の駆け出しの身分では、思い付きはよくてもことを起こすまでには至らず、やむなくどうしても大人物の名も借り、資本(もと)も借りなくてはと思い、伝手(つて)を求めて筑波に取り入った。人は悪いけれども、腹の底では『何だ、この老人(じじぃ)』と思いながら、どこまでも親分親分と立て通して、自分の考えが採用されて、成功することを願う余り、下げたくもない頭を下げて、子分のような顔をして下手(したて)に出たが、何度となく会う(うち)にようやく気心も解り合えた。なるほど、あれだけの運を掴んだ奴はやっぱりそれだけの器量もあると、こっちでも譲歩するところもあれば、向こうでもまた、こっちを買ってくれて、満更(まんざら)表面(うわべ)だけでは無く、二人して親分らしく、子分らしくなって来ると同時(とも)に、本腰を入れていよいよ筑波が自分の企画(もくろみ)有形(かたち)にしてくれそうな運びとなり、自分の家から近いとはいえ、その余り人を入れないあの家にまで自分を()び近づけて、相談もすれば無駄話もするほどに打ち解け合えるまでにもなった。そんな矢先、下手(へた)にまごついて彼女に悪く思われなどするようなことになっては、千日の(かや)を一日にして焼け失ってしまうことにもなりかねない。そんなところを、幸いにも伊東の話で、嘘か(まこと)か分からないが、噂が聞けたのはよかった。用心、用心。用心するに越したことはない。なるほど、世間には恐ろしい女も少なくない。亭主に愛想を尽かして自分から別れ、それ以後人の(めかけ)になって、やがてその正妻を()退()け、(つい)に立派にその後におさまって今に栄えておられるどこぞの何爵(なにしゃく)夫人のようなのも目にするこの世の中、実際、世間は広いようでも狭いもの。眼前(めさき)にもそのような女がいるではないか、とそんなことを思っている(うち)に、眼と鼻の距離なので島木は早くもその家の前まで来た。


つづく

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