幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(152)
其 百五十二 眼病み男の十二
「そうさ、随分快活で小怜悧な男だったのだが、そういう目に遭ったので、些と呆然となって、どんな馬鹿な真似でもしかねないような様子になったのだ。そこで打棄っちゃぁ置けないので、しみじみと意見をして、とうとう下らないことなんぞの上塗りはさせないように、いろいろ言って聞かせて、断念をつけさせたが、そのご意見番を勤め果たしたのは、こう見えてもこの俺だったのだ。途中、随分可厭になってしまうほど骨が折れて、焦れったくなったぜ」
「で、その男はどうした? 何という奴だい?」
「俺の友達だったのだから、名はその男の器量の好いところが出るまで言わずに置こうよ。で、生まれ変わって出て来なくちゃぁという気になって、見かけた目的があるというので、そいつは台湾へ渡った」
「差し詰め旅費はまぁ、お前の義損というところだナ」
「お察しの通りだった、ハハハ。仕方がなかったからネ」
「すると、つまり勝鬨は対手に挙げられてしまったのだナ。もちろん、依怙贔屓無しに言やぁ、もとはと言えば野郎の方が悪いや。手出し十層倍(*1)だ。そのくらいの目に遭ったって言い分はねぇはずだ。対手は女だもの、思っていた男があったか無かったかは知らないけれども、そんな無理なことをされて、一生を自分の思うように渡れない身にされてしまったのだから、どんな甚い報復もするはずだ。あの女の方に理があるぜ」
「理屈を言やぁそうかも知れないが、でもその報復の仕方があんまり計略的で、手がこんでいるだけに憎くってならない。乃公ぁどこかの往来ででも出会ったら、澄ました顔へ馬の草鞋でも叩き付けてやりたいような気がする」
「そりゃぁ、その男とお前と交際があったからのことだ。どうして、談話を聞いてみりゃぁ大した偉い奴だ、古蝙蝠だの、白蝙蝠だのとはその男の口から言えた義理じゃぁない。乃公ぁどっちかと言やぁあの女の方へ味方に付いてやりてぇ」
「ハハハ、お前惚れたかい」
「諾、惚れてやっても可い」
「えらく贔屓にするナ。迂闊りして馬鹿にされちゃぁ不可ねぇぜ」
「ハハハ、下らねぇ! だが、どうもお前の談話通りだと、あんまり出来すぎて、ちょいと実際じゃぁ無さそうな気がする」
「お前にも似合わねぇ、世間の狭いことを言うもんだ。男に十人甚い奴がいりゃぁ、女にも十人甚い奴がいる理屈じゃぁねぇか。見渡したところ、〇〇夫人、△△夫人、□□の嬶、××の嬶、それ、ちょっと数えても四人も五人もいる。虫も殺さねぇ顔をしていても、皆腹の中の恐ろしく酷い奴等じゃねぇか。彼女もたしかにそんな仲間なのだ」
「でも、どうしてもそうは思えねぇ。やっぱり普通の女で、たかだか気持ち好く今日を送りたいくらいのことしか思っていやしないようだ。お前は高く買い過ぎているらしい」
「ヤ、お前は安く買い過ぎている」
「そして、筑波を嫌ってなんぞいるという様子は微塵もないぜ」
「そこが彼女の恐ろしいところで、普通の女なら嫌い徹しそうなところを、たしかに筑波だって下らない男じゃぁないもの、その中に好きになったに違いないのだ。もっとも筑波を好きになった方が理屈が宜かろうからナ、ハハハ」
「とにかくお前は恐ろしい女にしたがるぜ。怯えてでもいるようだ」
「笑わせるない! 女に怯える奴がいるものか、馬鹿々々しい! それはそうと、大分経ったぜ、ここで時計を見るが宜い」
「ハハハ、皮肉を言うナァ、そう鋭くっちゃぁ福運は取れねぇぜ。なるほど、大分経った。どれ出掛けるとするか!」
「真実に、筑波に会いに行くのだろう?」
「ン、しかもその女の家だ、招ばれたんだから。由来を聞いて、売物をみるとまた面白いものだ。そのお彤っていう奴がどんな面をしているか気をつけてみてやろう。ハハハ」
*1 手出し十層倍……最初に争いなどを仕掛けた者の罪は、仕掛けられた者の十倍にあたるということ。
つづく




