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幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(77)

 其 七十七


 いくら待っても水野は帰って来ない。この家の者は奥に退(しりぞ)いたまま音も立てない。日方はほとほと身を持てあまして、四辺(あたり)(ほん)などを手当たり次第に()き出しては読み散らしていたが、それにも直ぐに()きて所在なさに堪えかね、また、一室で静かに座っていることなどは慣れない身でもあり、何かあれば手持ち無沙汰の慰めにもなるのにと、見廻すその時、携えて来た二瓶の酒が目に止まれば、先ずニヤリとして、

「仕方がない、これでも飲んで待つことにしよう」

 と、口に出しては言わないが、心にそう思って、

「オイ、君! オイオイ、君!」

 と、呼び立てた。

「ハハハ、また君ィ君ィって呼ばっているでがす、私が君ィになって出て行きますべいか」

「ホホホ、いいよ、私が行ってみるから」

 お濱は立って客の前に行けば、

此酒(これ)()りながら待とうと思うのだ。栓抜きと洋盞(コップ)を貸してくれたまえ」

 と酒瓶(びん)を指差しながら無邪気に言う。

「ハイ、洋盞(コップ)はありますが、栓抜きが……」

 と、お濱がちょっと言い詰まったのも無理はない。洋酒など飲む者など誰もいない温厚者(おとなしや)揃いの此家(ここ)は、特に隠居所のことでもあり、現役の人の出入りも自然と少なく、何がある訳でもない(むら)住居(ずまい)の簡素な生活に慣れて、今日の今まで栓抜きが必要なことなどなかったため、貸そうと思ってもそのものがないので困ってしまったのである。

 お鍋を隣家(となり)に走らせようか、しかし、隣家はただの小作人なので、なおさら栓抜きなど持っているはずもない。では、本家に行かせようか、と言っても本家と此家(ここ)とは余りにも距離がある、どうしようかと、お濱は少時(しばらく)迷っていたが、ふと水野の持っていた洋小刀(ナイフ)に栓抜きが付いていたのを思い出し、先ずお鍋を呼んで小さい盆に洋盞(コップ)を載せて持って来させ、自分は机の周囲(まわり)や本箱の上などを見て、その例の小刀(ナイフ)はどこにと、捜し廻った。

 しかし、小刀(ナイフ)は外には出ておらず、(つい)に見当たらなかったので、もしやこの中にと、机の下にある手箱を引き出して、日頃心安くしていることもあり、何の気もなく掻き探れば、書簡(てがみ)、雑記帳、物を書きさした反故(ほご)などの底の方からその洋小刀(ナイフ)は出て来た。

「ヤ、栓抜きは此品(これ)で十分だ。何だか面白い物が出そうな(はこ)だナ。どれ、退屈しのぎに見てやろうか」

 日方は目敏(めざと)く既に()小刀(ナイフ)を取って、なおまたその匣の中の物を見ようとすれば、

「およしなさいよ、他人(ひと)の物を。貴下(あなた)は乱暴ネ」

 と(たしな)めるような強い口振りで言って、お濱は直ぐに匣の蓋を閉じ、机の下深く押し入れて、無遠慮にもほどがあるものをと腹を立て、あどけない顔にも眼を怒らせてその場を後にした。

 最初(もと)から歳もいかないお濱などには目もくれない日方は、手酌の味気なさに、一盃また一盃と重ねていたが、飲んではいよいよ相手欲しさに一人で居るのが淋しく、手持ち無沙汰の退屈紛れに、(さき)に見た手匣(てばこ)を自分の手許(てもと)に引き寄せ、(なか)にある雑記帳のような物を取り出して、この頃水野がどんなことを書いているのかと、それを知りたいだけの好奇心から、隔ての無い仲と言っても無遠慮に、一盃仰いでは一枚めくり、一枚読んでは一杯仰いで、とうとういつの間にか酔ってしまった。

 冊子はことあるごとに水野が読んだ国書や漢籍、あるいは洋書の中から、自分の気持ちに適した語、詩句、事実などを、時には原文のまま、時には自分なりに書き直して、筆のおもむくままに記した(まさ)に抜き書きで、あたかも人が摘んで集めた花の色々を(いと)で貫き通した物を見るような趣味(おもむき)があるものであった。日方は心(ひそ)かに水野が苦学を怠っていないのを悦びながら読んでいたが、読んでいる途中、(なか)に挟まっていた一片の紙が偶然(ふと)飛び出したので、何だろうと急いで手に取って見ると、第七番凶という観音の御籤(みくじ)であった。

「いかんナ。どうも(おか)しいナ、こんなものが出るとは。机の上には普門品があるし、ここにはこんなものが挟まっている。どうしたのだろう、何だか(おか)しいナ」

 しかし(おか)しいのは挟まっていたそれだけで、冊子の三分の一ほどは未だ白紙で物も書かれずに残っている。これだけかと、日方はその冊子を伏せ置いて、盃を含み、何か物を思っていたが、見るともなしに見れば、冊子の(うしろ)の表紙には反故染(ほごぞめ)(*1)とでも見えるように、落書きの上に落書きが重なって、縦横(たてよこ)(すじ)(ちがい)に何かが書かれてある。何をこんな風に落書きしているのかと、読みやすいところを探して、ひと続きを読めば、これは一首の歌で、

『立ちて()方便(たずき)も知らに我が心天つ空なり(つち)は踏めども』

(地面に立ってはいるのだけれども、どうやって立っているのか分からないくらい(うわ)の空になっている自分がいる)

 とあった。

「フフーン、よくは分からんが、恋の歌だナ。水野が詠んだのか。ウン(あれ)のだろう。も一ツは何だ、これも歌かナ。ナニ。

天地(あめつち)に少し至らぬ大丈夫(ますらお)と思いし我や雄心(おごころ)も無き』

(ひとかどの強者(つわもの)だと思っていた自分だが、男らしい気概もなくなっている)

 ハハァ、元は絶大な抱負も持った身だがと、恋に迷った今を自ら悲しむ歌だナ。アァ佳い歌だ。俺にも解る。世界中の男たちと比べても決して見劣りする自分だとは思わなかったのになぁと、恋の苦しさに(やつ)れ、(うめ)きだしたこの歌の主の腹ん中が憫然(かわいそう)でならん。こっちに書いてあるのは何だ。何だと?

大丈夫(ますらお)のさとき心も今は無し恋の(やっこ)と我は死ぬべし』

(日本男子としての聡明な心も今は失い、私はもはや恋の奴隷となって死んでしまうだろう)

 アァ、いかんいかん、()しからんこった。馬鹿々々しい。散らして書いてあるこの読みにくいのは何だ。

久堅(ひさかた)のあまみづ、』エート、

久堅(ひさかた)(あま)みつ空に照れる日の()せなん日こそ我が恋止まめ』

(空に照り輝く太陽が無くなる日が来ない限り、私の恋心は止められない)

 いかんナ、いかんナ、こう恐ろしく思い込んでは始末がつかん。こう滅茶苦茶になっては実にいかん、大馬鹿野郎だ、恋愛狂だ」

 こちらで日方が夢中になって酔いに乗じてこんな風に罵っている時、向こうではお濱が悦びに溢れる声で、

「マ、遅かったのネェ、随分待ってたわ。それにアノ日方さんという人が来て待っててよ」

 と、(せわ)しげに物言えば、同じように少し早口で、

「そうかい、観音様であのお龍っていう人にひょっくり会って、あの朋友(ともだち)とか言う立派な婦人(おくさん)と二人に無理矢理引っ張られてご馳走になったりしたものだから、大分帰りが遅くなってしまった。日方は一時間も前から待っていたのかい」

 と水野が話す声がした。


*1 反故染……書き損なった手紙を図柄にするように文字を染め出したもの。

つづく

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