幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(148)
其 百四十八 眼病み男の八
「そこで奴さん到頭殺られてしまって、血迷ったものだから、下らないことを言い出した。現今でも俺を思っていてくれるなら……とか何とか。弱み所を悉皆見せてしまうと、どっこい、先方が逆に出てピンと拗ねて、おぉ怖い! 男児はそれでなくっても皆浮気者ばかりなのに、ましてお前さんは働きもあり、年齢は若いし、好きなことのできる身。私は好んでこうなったのじゃぁないにしろ、弱点の付いている身体だから、当座の娯楽にされて、厭になったらさようならを決められてしまえば、その時いくら恨んでも怒っても追っ付かない談。そうでないまでも、私もお前さんも筑波には恩になっている身で、よしや筑波は怖くないまでも、お天道様を馬鹿にして、大それた巫山戯たことなんぞは私には出来ない。お前さんの方は何時でも逃げの打てる身で、私の方は親を抱えていながら生命がけのようなことをする、そんな危ない橋を渡ることが出来ないではないけれども、そういう中途半端なことは私は嫌いだ。それよりも真実に私の身体のこんなになってしまったのをも恕して、一生連れ添ってもやろうという意がおありならば、しゃんと暇をもらって直ぐにでもお前さんのところへ行きたい。天下晴れて一緒になれる道があるのに、薄暗いことをするのは可厭です。さぁどうです、お前さんの言うことが嘘でなけりゃぁ、明日にでも仔細を明かして、筑波から清潔さっぱりと暇をもらって、璺の入った身体に母親まで属いているのは、随分お気の毒だが、今さら仕方がないから、些と厚顔しいけれども押し掛け女房に、と言い詰められた。押し掛けて来られるのも悪いことはないけれども、母親まで属いて来るのだし、第一この顛末を暴露にして、無理矢理に暇を取って自分のところへ来ると言やぁ、筑波にこの野郎、憎い奴だと睨まれるのは分かったことで、筑波の気息が掛かってりゃぁこそ、どうにかこうにか世も渡って行かれるものの、親分の機嫌を損ねてしまやぁそれまでの身なんだから、流石に奴さんも復ぐっと塞えて、返答も急には言いかねて大腕組みになる。それを見ると、それそれ、それだから男は当てにならない、おぉ怖い! 私は私だけの果敢ない運に生まれたのだと思って諦めていりゃぁそれで済むので、なまじっかなことを言われたり、されたりしない方が却って宜いくらいなもの。薄命に生まれついているものはどこまで行っても薄命なのに定まっていると、妙に気を持たせるように言うので、奴さん意気地がなくなって、実はお前を思う心に虚偽はないのだけれども、筑波とは離れられない。それというのもこうこうでと、弁解がましいことを話すと、やっと納得して、それならこうして下さい、私ももう、もう貧乏には懲り懲りしていて、何が厭だって、これほど可厭に思うものはありません、ですから今少時は私も忍耐して筑波の世話になっていて、どうにでもして獲れるものだけの金銭は取ります。そして、それを動かしてお前さんに働いてもらって、一廉の資本になるまでに仕上げてもらったら、その暁には筑波から離れたって構う訳はありますまい。其金は悉皆私の持参金にしてお前さんのところへ嫁きましょう。何でも構うことは無いから、遅かれ早かれ、二人の手で十分の金が出来さえしたら、それを土産にして、そしてお前さんと一緒になりましょう。それまでは私もお前さんも指をさされぬようにして、一時も早く幸福の根を作ってしまったらどんなにか嬉しいことだろうと私は思います、とこういう理屈を言って聞かされたのだ」
「しかし下らないじゃぁないか、商売をすりゃぁ得をすることもあれば、そう注文通りに行かないこともあるじゃぁないか。いくらその奴がどう思ったって、儲かるばかりという訳にゃぁ行くまい。何だか談話につかまえどころがないようだナ」
「ところが、そこが恐ろしいのだ、必ず儲かる道理を把捉えていて、彼女が奴さんを手代にしたのだ」
「ン? ハテナ」
つづく




