幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(146)
其 百四十六 眼病み男の六
父親も飲酒家なら母親も飲酒家だったので、どっちに似ても飲む訳なので、彼女もやっぱり児童の時から父親が悪戯半分に飲ませたのを嫌がりもしないで飲んだ方だったそうだが、それでも娘盛りには飲みもしなかったところ、例の無理な一件以来、乱れのない酒ではあるが、結構飲み出したので、その日も十二分に飲ったそうだ。彼女の母親ももはや席に居られないほどになって、次の室へ退って休んでしまうというようになり、夜も大分更けて寂然と静かで、何でも雨催いの空の生暖かい夏の初めだったそうだ。何時になく些とは酔いに乱れて来て、酒に蒸された顔に紅色ざしたのも馬鹿に艶っぽくて、髪は佳し、眼は綺麗、ただ見ていてるだけでも恍然となるようなくらいに美しい彼女めが、どうだろう、マァ、その光り流れるような情のある眼でもって、流眄に、見るように、見ないように、凝然とこっちを見ていて、物も言わずに十秒、二十秒、三十秒、一分と少時経ったというのだ。前々から優しく接してくれてはいるし、その日も筑波が帰ってからは、猪口の獻酬なんかにも、取りなしようによっては、随分とこりゃぁ異だわぇと思えるようなことが何度となくあったそうで、その挙げ句にそういう素振りをされたんだから、木じゃぁ無し、石じゃぁ無しの奴さんだもの、堪らないじゃぁないか。こいつはもしかして、いや、万一したら惚れられたんじゃぁねぇかと思うと、ブルッと一つ理由の解らねぇ嬉しさの顫えが来て、魂魄の裏側が妙に羞痒たくなるような奇異な気がしたって言うぜ。ウフフフフ」
「フフフッ、豪気に談話が詳しいぜ。そこいらはお前の身の経験からでも割り出した付加物らしいナ」
「ナニ、そうじゃぁねぇ、真実の談だよ。憚りながら俺なんざぁ女に惚れられたなと思ったって、蚊に止まられたぐらいにしきゃぁ思わねぇ。直ぐに追っ払ってやろうか、少時ばかし楽しませて遊ばせておいてやろうかと思案するぐらいもののだ」
「ヤ、こいつ、大した手前味噌を言いやがる! 撲き打るぞ。ハハハ、だが、お前は談話ぁ上手だ。魂魄の裏側が妙に羞痒たいような、真実に其奴ぁそんな気持ちにもなったろうよ。フフフ」
「ハハハ、甚く買ってくれたナ。さてはお前もそんな気持ちになったことがあるんだナ」
「ン、篦棒めぇ! 女に惚れるのが男児の疵になるかい!? 無くってかい、弁慶じゃぁあるめぇし、沢山あらぁナ」
「で、沢山取られたかい? ハハハ」
「当然よ! 可いじゃぁねぇか、いっそまた取られてやった方が! 気に入った女に銭を取られめぇと思うような卑小な根性は持たねぇ。この俺に、魂魄の裏側が妙に羞痒たいような気持ちにさせる女がありゃぁ、今だって迷ってやらぁ」
「広告みたいにぁあ何かと行かねぇ世間だ、そう言ってももう、あんまり迷いそうもない男だテ」
「ハハハ、まったくそんなものだ。段々と気難しくなって来て、面の皮の色さえ白けりゃぁ気に入るという年齢でも無くなったからナァ。だが、お美代なんざぁ気に入っているぜ」
「ハハハ、危険々々! 彼女もお前が気に入っているようだ」
「馬鹿を言え。お前、そんなことはどうでも可いが、肝心の談の方の後を継けねぇ」
「それからお前、奴さんも妙な気がして、そっと見ていると、その中に彼女めの眼の中に涙が潮して来る。オヤッと思うと、突と彼方を向いてしまって、その顔を隠して、そして人には言えない悲哀に耐え兼ねたという風に、吻と息を吐いたのだ。そこで奴さん、合点の行かないところもあるが、それはそれとして、何をそんなに面白くなさそうになさる、結構なご身分なのに、というところから段々と話し込んでいくと、こうやって表面だけ楽に生活したからって何が好かろうと、対手は談を切り出して、とうとう言い淀んだ末に、大変なことを言い出したのだ。それを聞いて奴さんはもう骨も魂魄も引き抜かれてしまったのだ」
つづく




