幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(145)
其 百四十五 眼病み男の五
「ここまでの談じゃぁ、どうしても彼女の方に理があって、お前の知ってる男の方に肩の持ちようはないじゃぁないか。それなのに彼女の方を古蝙蝠だの、白蝙蝠だのと悪く言うなぁ全然無理だ。その男こそ水獺か狐だ! 卑劣漢の癖にクソ狡猾い野郎だ!」
「ハハハ、甚くお気に障ったナ」
「当然よ、そんな野郎が気に障らなきゃぁ、気っていうものが頭から無いってもんだ。脳天へ孔を穿けて唾壺にしてでもやりてぇ野郎だ!」
「ハハハ、マァ宜いさ、後譚を聞きねぇ、因果はあるんだから」
「ウン、それから」
「親が承知でさせたことだから彼女も仕方はない。そりゃぁ口惜しくもあったろうし、腹も立ったろうが、頼りにする味方は一人も無しで、つまりどこまでもゴネていりゃぁ、生みの親を相手にして争合わなけりゃぁならない訳なのだから、彼女も諦めてしまったのさ。考えてやりゃぁ憫然な訳なんだ」
「愍然も憫然でないも、そんな酷いことがある訳がない!」
「そこで、それからというもの、彼女の眼付きは険しくなる、物は言わなくなる。全然態容ががらっと変わってしまったが、それでも川へ飛び込むようなことがあっては、と傍で心配したようなことはちっとも無くって、段々と眼付きも復優しくなるし、口もきくようになって来たのだ。でもやっぱり筑波には相当当たり散らしたそうだが、筑波は筑波で家も買ってやる、手当も好くしてやると、甚く気に入っていた。その中彼女が次第々々に腹を据えたか、先ず第一に母親に怨恨を復したのだよ。表面は綺麗に親孝行の皮を被って、朝夕を気ままにお暮らしなさるようにっていう建前で自分の傍から追っ払ってしまって、別の小家に住まわせて、付き添いの下女一人限りで淋しく暮らさせた。母親というのは浮気っぽい無作法な女で、几帳面な礼儀作法は甚く苦手。どっちかと言えば三味線でも弾いて酒でも飲んで戯らついていたい方なので、彼女の礼儀づくめにあって、生みの子でありながら我が子の側へ寄りつくことも出来ないような始末で、とうとう何一つ不足はないけれども、淋しく面白くないあまりに酒ばかり飲んだのが祟って、下らなく能も無く死んでしまったそうだ。そりゃぁまぁこれは傍からの眼の邪推の話で、彼女の本心はやっぱり真実に親を大切にしたのだと言やぁそれまでだが、さぁこれからが彼女が恐ろしい奴だといいう談の本題だ。今話した中へ立った俺の知っている奴だ。こいつは馬鹿じゃぁなし、そんなこともするくらいの奴だから、稼ぐことにも相応に稼いで、衣服もこざっぱりとして、たまにゃぁ旨い酒も飲んで、あっちこっちを飛び回って知恵者らしくやっていたのだ。ところが彼女を世話したというところから、彼女も段々と怒ってばかりもいないようになってからは、時々彼女の家にも何かの用で筑波に招びつけられたり、自分からも面会に行ったりして出入りしていた。こっちじゃぁもとより悪く思われちゃぁ損だから、何のかのと彼女にも機嫌を取ると、彼女の方でも嫣然と優しく当たってくれる。綺麗な若い女に優しくもてなされて悪い気持ちがしないはずはない。自惚れのない奴はないから、奴さん、腹の底じゃぁ、俺の方が筑波より年齢は若いし、第一禿げちゃぁいないし、人にゃぁ言わないまでも独笑をするようなこともある。ところがそうばかりじゃぁない。時によると甚く無愛想にツンとして顔も見せないように待遇われることもあるので、嬉しいような思いをする日があるだけに、厭な思いをする日もある。厭な思いをする日があるだけにまた嬉しい思いが強く利く。先方は主人筋の持物で、高い枝の花だし、迂闊な物言いも出来ないし、さぁ奴さん妙に気が揉め出した。すると一日のこと、筑波と彼女と彼女の母親とその男の四人で飲んでいた時、急用が出来て、筑波は直ぐに帰ってしまったその後のことだ。奴さん突然、彼女から大変な毒を盛られてしまった。
つづく




