幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(142)
其 百四十二 眼病み男の二
川立は川で果てる(*1)と言われる。何時までも同じことをしているべきではないと、利運を得たのを機会に米の先物取引を見限り、一方は羽勝が予てから心に秘めていた事業に乗り、幾ばくかの投資をしながら、首尾は羽勝の手腕次第、聞く耳次第と長閑気に考え込み、自分は自分で一働きするつもりの計画で、当世の中心人物となった年齢は老けたけれども気はまだ若い、何でも来いの事業助平と噂された筑波という煮ても焼いても食えぬ爺を抱き込んでか、担ぎ上げてか、あるいはその爺の懐中小刀となってかは知らないが、島木は実際しばしば人知れず出入りしていたのを、思いがけなく伊東に言い中てられたので、一時は驚いた。そのやろうとすることがどんなことなのか、それを嗅ぎつけられるのを甚く恐れているのである。
「フーム、面白いことを言うナ」
と知らん顔で応えれば、
「宜いやナ、白を切らなくっても! 別に野暮なことをしようっていう気はないんだから」
と得意げに笑い、
「どうしてそんなことを知ってる?」
と詰り反すように島木が言うのに少しも萎まず、
「どうしてって、そりゃぁ家ん中にいたって、天下のことを知っているところが俺の身上だ。だが安心するが好い。実はお前と筑波とがどんな取組方でどんなことをしようとしているのかは、そりゃぁ些とも知らないんだから」
と、知らないことがあるということは知っていることも確かにあるのだと言わんばかりである。
「ハテナ、どうも解らないことを言う! 当てずっぽうだろう」
「フン、いい加減に白ばっくれるのはよしな! そんなら言おうか、しかもお前は過般の夜、筑波の外妾のお彤って奴のところへ訪ねて行って、筑波と二人っきりで長い談をしていたろう。それどうだ、そこまで知っているのだ。図星だろう」
島木は伊東がお彤を知っているか、そうでなければ、お彤の家の下女の一人を知っているのではないと、ここまでは知らないはずだと思い、馬鹿な問いを口にした。
「お前、あの女を知ってるか」
「そらそら白状して来た。ン、知っている。しかも洗いざらい知っちゃぁいるが、直接にじゃぁねぇ。ただ、ちいっと仔細があって知っているのだが、筑波同様に、そんじゃそこらの化物じゃぁねぇぜ」
ここに至っては降参して、逆に自分が知らないことを今訊かないのは損だという気になった。
「フーム、不思議なことを知っているナ。こりゃぁ驚いた。筑波も知ってるか」
「奴には会ったこともあるが、談話をしたことはねぇ。だた、大抵は知り抜いているよ、酷い奴だぜぇ。お前がそう素直におとなしく出て来りゃぁ、最初っからお前のために言おうと思っていたのだから言っておくがネ」
「ん」
「お前があの爺と一緒になって何をするつもりか知らないけれども、彼奴はよくよくな奴だよ。気をつけないとこっちがやられる。今こそ行らないが、十年も前は彼奴も株をしたり、米をしたりだったが、いつでも同盟面をしておいちゃぁ裏切りをしてしまうというやり口をやったという談だ」
「金はあってもやっぱり護摩の灰だナ、行き着く所まで行き着かない中に、一人で好いことをしようというんだから」
「そうさ! 当世の実業家っていう奴は大抵護摩の灰だけれどもナ、彼奴なんざぁ特別の大護摩だ」
「ハハハ、だってこっちにゃぁ取られる物が無いから好いや。お前の親切は嬉しいが、何も問題はねぇ。彼奴が護摩の灰なら乃公は雲助だ! 元々裸だから強気なものだ。逆手にとって先ずぁこっちへ巻き上げてやらぁ。ハハハハハハ」
「お、恐ろしい! ハハハハハハ。だがネ、こっちで対手の金を使って事業をしようと思ってる中に、対手にこっちの智慧を使われて儲けられっちまうのが無財漢の結局だからよ。抜かりはなかろうが、対手が悪いからナ」
「なるほど! いい話が聞けた。けれども悪くっても何でも有財漢を対手にしなくっちゃぁ」
「違ぇねぇ。で、何かぇ、払い下げとか何とかいうようなことかい?」
「……ト、お前だけれども、まぁ黙っておこうよ」
「ン、こいつぁ愚鈍なことを言った! 聞かなくたって好い」
「頼みたいことが出来れば、その時ゃぁ相談もするが、まだ筋書きの中だから、まぁ打棄っておいてくれ。七分っていうところまで漕ぎつけているのだ。で、あの女は一体もってどんな化物なんだネ?」
「いや、彼奴ぁ実にもう甚い化物だ。彼奴は確かに筑波の上を行ってる奴だ。俺の知ってる奴が彼奴のためにゃぁ血を吸われて殺されかかっている! 野暮に言やぁ憎い奴だが、さて偉い奴だ。その殺されかかったのを口惜しがって、口惜しがって、彼奴に渾名を付けて白蝙蝠と言ったくらいだ」
「フーン、白蝙蝠たぁ何となく佳いナ。まぁ一体どうしたというんだい?」
「只で聞かすなぁ惜しい談だが、まぁこうなんだ」
外は夏なら蝙蝠が飛ぶくらいに暗くなって、島木が最近引かせた電燈がぱっと灯った。
*1 川立は川で果てる……川に育ち川に慣れている者は、川で死ぬことが多い。得意な技を持つ者は、得意なだけに油断を招きやすく、そのために失敗したり身を滅ぼしたりするというたとえ。
つづく




