幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(141)
其 百四十一 眼病み男の一
「オイ、オイッ、どこかへ出掛けるのか?」
跫音にそれと気づいて呼びかける声は伊東である。襖はぴったりと閉まっているので姿は見えないけれども、この秋頃からやることなすこと当り徹しで、勢いは大潮が満ちるほどであったが、一旦運が衰えてからは、自分が差し昇る日のように輝き照るのに引き替え、彼は傾く月が光り弱まって、何ともし難いほどの窮境に陥った挙げ句、この頃ではそれに加えて眼さえ患って苦しんでいる。何をするにも金がないので、何も出来ず、それでなくとも気が滅入る上、見ることの不自由さに籠もりがちで、面白いことなど何もなく、繃帯をした片眼を抑えて、打ちのめされてはいないものの、不樂しく焦燥ている様子が見える気がして、島木は出掛けようとしていたが、迷惑とは思いながらも、歩を止めて、
「ン、どうだ? 少しは快いか。退屈するだろうナ」
と答えれば、伊東は優しく言われて嬉しかったのか、室の入り口をがらりと引き明け、
「ナァ宜いだろう。ちっと話して行かないか」
と言ったが、島木がよそ行きの服装をしているのを見て、少し遠慮気味になり、
「ヤァ、鎧を着けてるナ、どこへ行くんだ? お前のことだから、女を捉まえようっていうんでもあるまいが、時刻はちょうどそんな頃だナ、飲酒にでも行こうというのかい? 随分当たったから裕福になって、いくらお前でも美麗なのが眼につき出したかェ?」
と笑えば、
「ハハハ、馬鹿を言え、まだ色気何ぞが出て来るほどにゃぁ慾が弛みやしねぇ! でも何だなぁ、片眼は繃帯、片眼は色眼鏡という憫然な様でも、眼鏡の下から何でも何かが見られるようになったようで、マァ有り難いことだナ。みんなお美代のお蔭だぜ、お美代大明神だぜ」
と、こちらも笑いながら室中に入って、むずと胡座を組む。
「ナァニ、お前のお蔭だ。お前の恩は忘れねぇ。お美代ん畜生は騒ぎやがるばかりで、十円の工面も直ぐには出来やがらねぇのだから」
「だって、まだ若いんだもの、そんな無理を言いなさんな。お前も大分愚痴っぽいことを言うぜ」
「違ぇねぇ! そりゃそうだ。あんまり貧乏をしたんで、つい卑劣なことを言い出すようになった」
「ほんとにそうだ、お美代のことを悪く言ったりなんぞしやがると女運が尽きてしまって罰が当たるぜ、好男子! だが悪くねぇナ、目星を付けた山が外れて無一文になって、ちょいと眼を患って大いに困っても、大騒ぎをやってくれる女の子がいて、そいつがまだ囲われの身っていう可愛らしい身の上でいながら、無理矢理に種々の算段をして貢いでくれるなんていうなぁ! 名古屋者(*1)が天下を取ってる今時にある話じゃぁありゃしねぇ。些とぐらい貧乏しても乃公もあやかりてぇや」
「ハハハハハハ、馬鹿にしやがる、篦棒め、こっちゃぁ所望ならあんな奴の一ダースや二ダース遣ってしまっても貧乏はしたくねぇ位に思っているのだ! フン、お前、意中人でも出来たのだナ、それで今出掛けようっていうんだナ」
「変に勘を付けやがったが、お生憎様、中らないや。ナァニ、やっぱり慾心一点張りなのさ」
「だって今頃……解った! お前、筑波と一緒になって何か企んでいるんで、奴のところへ出掛けて行くんだナ。吃驚しなくっても好いよ。眼は悪くっても早くから睨んで知ってるのだ」
*1 名古屋者……徳川家康を指すのだろうか? それとも当時の有力者が名古屋出身だと言うのだろうか?
つづく
 




