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幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(139)

 其 百三十九 白鷺楼の四


 何度となくこの()を見てきたが、心に何かもの思う時には、それに(わだかま)って自然(おのず)と眼に入らず、また何もない時には気にも止めずそのまま見過ごして来たためか、今まで何年もの間ただの一度も古いそんな昔のことなどを思い出したこともなかった。しかし、今夜は差し当たって口惜(くや)しいことも、悲しいことも、また気遣わしいこともなく、まして人には明かせない(はず)かしい思いに胸の底を掻きむしりたいような気持ちがするということなどないけれど、かと言ってまた、まったく雲の無い空のただ美しく青いような胸の中がさっぱりと乾浄(きれい)ということでもなく、思い詰めるということもないけれど、何もかも忘れ果てて、何も考えずにすんなり夢路に入るという風にはならないので、偶然(ふと)、眼の前のこの鷺の画などが心に留まって、昨日今日のことではない古い記憶が新たに浮かんで来るのだろうか。お龍はなおも忘れようとしたが、どうしてもその鷺を忘れることが出来なかった。

 それにしても昼間の姉さんの言葉は、私を元気づけようとして下さる心算(つもり)で、戯談(じょうだん)交じりのことに違いないとは言え、余りにも(きつ)過ぎて(きつ)過ぎて、一々私の耳には可厭(いや)に聞こえてならなかった。もし彼言(あれ)がまぁ姉さんの真実(ほんと)(こころ)からなのであれば、姉さんはやっぱり静岡の叔母さんと(おんな)じような人に違いない! そりゃぁ智慧もあり余るほどあって、同情(おもいやり)も痒い所に手が届くほどあり、気位(きぐらい)にしても大層違って、叔母なんかよりは何もかも(すぐ)れておいでなさるには違いないけれども、種々(いろいろ)のことが勝れておいでなさるだけに仰ることも輪を掛けて、叔母はただ堅い男を持てといったところを、姉さんは世を渡る技術(うで)のある毅然(しっかり)とした立派な男子を()って配偶(つれあい)にしろとお言いになっただけで、やぱり中身に違いはありはしない。まさか姉さんの本心からとは思えないけれど、全然(まるっきり)(こころ)にもないことをお言いではなかった様子。一度こういう不幸(ふしあわせ)な目に遭って来た私に、また男を持てと仰って、真実(ほんと)にそういうことに私が唯々(はい)と言うとでも思っておいでなのかしら。あれほどよく何もかもお解りの姉さんで、あれほど私を可愛がって下さるあの姉さんで、そして今じゃぁこの広い世界の中で私にとっちゃぁ叔母よりも誰よりも一番馴染みの深いあの姉さんが、まさか私をそんなことをしそうなものとは思っておいでじゃぁあるまいけれど……。なるほど、二度、三度亭主(おとこ)を持つ人も(めず)らしくはないから、叔母の言うのも世間には普通(ありふれ)てはいようし、不思議はないかも知れないが、それは(よそ)の人の話で、私は私の性分。私の性分を知りきっておいでのあの姉さんが、私もやっぱり他の人と同じように、時が経ちさえすりゃぁ、また新規に男を持つものと思っておいでじゃぁあるまい。飼い犬でも変えるように種々(いろいろ)な男を持つような、そんな気になれるような薄情な私なら、憎いあの人に棄てられたからといって、ああは口惜(くや)しがらない。姉さんは私がどんな女だということは知りきっておいでに違いない。けれども、過日(こないだ)からのお話しといい、今日のお言葉といい、何だか私には可厭(いや)に聞こえてならない。もしかして、私をやっぱり真実(ほんと)今後(これから)また男でも持ちそうなものに思っておいでなのかしら。まさかそんなことはあるまいが。いやいや、水野という人のことを何度もお言いで、さも私がその人をどうかでも思っているようにお取りになっているかのように聞こえた。あぁ、もしそうお取りのようなら、そりゃぁ働きのある男を持てとお勧めなさるのも道理(もっとも)だけれども、どうして、私があの人をどうのこうのと思っていよう。私はただあの人を気の毒だと思っているだけで、私はただあの人を嫌いではないけれども、何で私に乾浄(きれい)でない底心(そこごころ)があろう! そりゃぁ私はあの人を好いてはいるけれども、好いているだけで、どうのこうのとは真実(ほんと)に思ってはいない。真個(ほんと)に私は(うし)ろ指を()されるような心などは微塵も持ってはいない。


つづく

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