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幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(76)

 其 七十六


 牽牛花(あさがお)の花の色が去年と今年とでは同じではないように、人の心も昨日と今日では変わるのが常である。水野は(さき)の日曜から、どうなってしまったのか、今までの水野らしくなく、ただ世の中に数多(あまた)いる無智無学な爺婆のようになって、ひたすら御仏(みほとけ)を頼み(たてまつ)り、毎日毎日、学校の勤めが終わるや否や、直ぐに浅草へ走って行き、本尊の御前(おんまえ)で祈念を凝らし、偽言(いつわり)のない心の誠を捧げ尽くしてから、ようやく宿に帰るのが習慣となっていた。

 今日は日曜で、身体も()いているので、お濱がいつものように(いぶか)り怪しんで美しい眉を(ひそ)めるのを背後(うしろ)に見棄て、水野は正午(ひる)を過ぎた頃、(いえ)を出た。

 吉右衞門は本家に相談事があると、()ばれて出ており、お濱が一人無心に新刊の雑誌を読みながら、お鍋と共に留守番をしている。そんなところへ、

「山路。ウン此家(ここ)ダナ」

 と、表札を読んで独りつぶやいて、胴間声(どうまごえ)の人を驚かすほど恐ろしく大きな声で、

「頼む」

 と一声(ひとこえ)呼ぶ者がいた。

「誰か呼ばったでがす」

「そうだネ、お前が出てご覧ナ」

 お濱はなおも雑誌を読み続けていたが、応対の様子が判然(はっきり)と聞こえてくる。

「水野は居るか」

「今ァ居ねぇでがす」

「どこへ行った」

「知りましねぇ」

「しかし、出たものならいずれ帰るだろう」

「どうでがすかサ」

「遠い所わざわざ来たのだから上がって待っていよう」

「いかねぇでがす、待たっせぇお(めえ)様」

 お鍋は慌てて入って来て、

「いやに身体のいかつい横柄な野郎でがす。水野さんのこと聞くから不在(るす)だって言ったら、上がって待とうと()かします、どうしてくれますべい。イヤな奴でがす」

 と言えば、お濱はやっと雑誌から目を離して笑い出し、

「分からないねぇお前は。言葉の様子じゃぁ水野さんと仲の好いお朋友(ともだち)らしいじゃないか。どれ、私が行ってみよう」

 と立って出た。

 見れば、客は血気壮盛(さかん)な陸軍士官で、頭顱(あたま)大きく、肩幅の広い様子は素人が作った土人形などのようで、無骨(ぶこつ)一遍(いっぺん)の正直そうな人である。

「水野さんは今お不在(るす)ですが、誰様(どなた)でいらっしゃいます?」

 言葉もなく、客が名刺を出して渡すのを、お濱は手に取って読んで、急に笑顔になった。と言うのも、()だ顔は見たことはなかったが、水野に日方八郎という名の友人がいることは、以前からよく聞かされていて、何時(いつ)ともなく覚えていたからである。

「確か島木さんやなんぞとご一緒の、同じお国の方でいらっしゃいましたネ」

 一応念を推すお濱を、日方は眼を見据えてちょっと見たが、何怪しむこともない処女(きむすめ)の、ただ怜悧(りこう)そうに見えるだけの清らかな娘なので、

「その通り」

 と、ごく手短に答えた。

「水野さんは浅草までおいでになったのですから、ご退屈でもお待ちになるなら、こちらへお通りなすって」

 何時(いつ)の間にかお濱の背後(うしろ)にやって来たお鍋はそっと袖を引いて、

()いでがすかェ、そんなことをして。何だか虫の好かねぇ厭な奴でがすよ」

 と、心配し過ぎて小声で止めるのを他所(よそ)に、お濱は日方を案内して水野の(へや)へ通した。

 日方は水野の机の横にどっかりと座って、

「ハハァ何も装飾(かざり)はないが、悪くない部屋だナ。相変わらずあるのは書籍(ほん)だけで、余計な物がないところは流石(さすが)に感心だ」

 と()ず評する時、お濱はお鍋が汲んで来た茶を(すす)めれば、

「君は此家(ここ)の娘さんかナ。どうだ水野は、この頃も相変わらず勉強か」

 と話をしたさに打ち解けて訊くと、水野々々と呼び捨てにするのが小面憎(こづらにく)くてか、

「ハイ」

 とただ一言で答えを切って、

「ご自由にしておいでなすって」

 と言い棄てたまま、()と隣の間に出て、(ふすま)をびっしゃり、お鍋の後を追って、茶の()退(しりぞ)けば、お鍋は手の甲を口に当てて笑いながら、

「女を呼ぶのに君だなんて、ホホホハハハ」

 と、ゲラゲラ笑いが止まらない。お濱も睨む真似をして、叱りはしながらも、自分も口の辺りに笑いを浮かべた。

 話し相手がいない所在なさの余り、日方はそこらを見廻しながら、机の上にあった折本に偶然(ふと)目を付けて、手に取って何気なく開いて見たが、たちまちそこに(ほう)り出し、

「何だ、普門品(ふもんぼん)! 何だ、これぁ何だ! 『お(あり)(がた)連中』の()むものではないか。まさか水野が信心をするのではあるまいが、こんなものが机に載っているのは何という馬鹿なこった」

 とそこに罵るべき人がいるかのように罵った。


つづく

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