幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(138)
其 百三十八 白鷺楼の三
その鷺を見つめれば、その眼もまたありありと自分を見つめ、そのままゆっくりとこちらに近づいて来る気勢である。お龍は思わず慄然としたが、たちまちまた自ら笑って、何だ燈火の具合で浮き出たように見えるだけではないか、不思議なことなど無い、普通の画なのだと思うと、鷺はまたぼうっと画の中に静かに立っているのであった。
思えばこの画は昔から姉さんが持っている画で、もう何年前になるのか分からないけれど、自分がまだ歳もいかず、遠慮もなく毎日のように遊びに来ては姉さんに甘えていた十幾歳の頃、どんな折だったかこの額を見て、姉さんこの画は淋しくて可厭な絵だわネェ、と言った時、そんなことをお言いで無い。こりゃぁお前の書いた絵じゃぁないか、と言われて、調戯われたとは知らず、気味の悪さに吃驚して顔の色を変えると、あっ、悪い戯談を言った、堪忍しておくれ、ただ少し訳があって私が持っているこの絵を可厭だってお言いだったのが甚く可厭に聞こえたものだから、詰まらないこと言ってお前を吃驚させた、私が悪かった、と謝罪られ、慰められた記憶がある。その時、自分の心は直ぐに落ち着いて、何、姉さんが好きなのなら私も好きになるわ、そして私も真似をして描いてあげるわ、と言って、その日筆を執り、下手な見描しだけれど、どうやらこうやら似たようなものを描いて、大いに褒められて悦ばれたことがあった。しかし、その画がここにある理由というのは聞きもせず、聞こうともしないでそのまま過ぎて、それから後も何度となくこの画を見、この画の下で寝たこともあったが、気にも掛けず、心にも止めず今日に至った。今夜はたまたま夜が更けて稀らしく静寂に、燈火の光が朦朧した具合に画に映り合う上、自分の心がさまざまなことを思って、異しく冴えたあまり、ふと自分の眼について自分の思いがこれに牽かれたのだろう。この画自体は昨日と今日、何一つ異った所はないのに、何時になく鷺が動きでもするように思ってしまうのも愚かなことだと思い、お龍は眠ろうとして無理矢理眼眶を合わせた。
寝苦しいとまでは言わないが、なおも夢に入りかねて、ふとまた眼を開けば、鷺は薄い闇に動いて、今こちらへ歩いてこようとしている。
少し理由があって私が持っている画だと、確かにあの時、姉さんが言っていたその理由とは、どんな理由なのか、その時はうっかり聞き流してしまい、その仔細を尋ねもせず、またその後はこの画について一言の談話をしたこともないので、それは解りようもないけれど、今思えばこの画については何か深い訳がありそうな気がする! 姉さんは自分の過去話などをなさったことは些少もないので、眼に見える他は自分は何一つ知らないが、往時は一体どんな径路を経た人なのか? この画にはまたどのような理由があるのやら? 私の身にしても種々の過去がある。姉さんの往時にも何もないことはあるまい。他のことはともかく、この画についてだけでも! あぁしかしこの様なことを思っても何の甲斐もないことだ、とお龍はいろいろに思った末に心を落ち着かせて、復びその鷺の絵を何気なく見た。
つづく




