幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(137)
其 百三十七 白鷺楼の二
そこであったことを色々話した後、不要ぬことを饒舌ってしまったと少し悔やんでか、お就眠なさいましを最後の言葉に、年齢に似合わず、冴えない老けこんだ様子になって、お富は静かに室を出て行った。
階子を下りた音が遠方に消えてしまえば、室毎の襖が閉まっているからか、あるいはお春も一緒に皆眠りに就いてしまったのか、微少な音響さえ聞こえない。風もない冬の夜の、戸外はきっと星斗が燦然して、霜が降る最中だろう。天地は死んだように静かで、ただ流石に都会の市中なので、此家からは少し離れてはいるが、凍てついた路に車の走る轟きがひっきりなしに遠くから来ては復遠方へ去っていくだけで、犬さえ鳴かず、穏やかに今夜は更けて行った。
その理由は主人でなければ知る由がないが、楼上の此室にはわざと電燈を嫌ってか、その設備は無く、大層美しい少し背の高い置洋燈が備えられている。電燈はそれ自体の光を細めたり大きくしたりすることが油燈のように自在に出来ず、点せば明る過ぎ、点さなければまったく暗く、喩えようもない春の朧夜のような朧気な光を、時々の気分に任せて加減して、趣致を得ることは叶えられないので、それが何かの折にか、面白くないと思ったことがあったため、このようにしたのだろう。お龍はやがて衣を着替え、枕頭のその燈が消えるほどまでに細めて眠りに就いた。
燈火の光は朦朧と一室に籠もっている。床の間には掛軸は掛かっておらず、これだけを眺めるべし、とでも言うように挿した妙蓮寺山茶の、半ば咲いたのが一輪、咲いていないのが二点、浮かび上がるように白く見える他には何も心を惹くものはない。お龍はこの瀟洒で清らかな室の中で、柔らかな燈の光を浴び、穏やかに深々と更けていく夜を寝て、優しく幸福多い眠りに入ろうとした。が、どうしたことか、直ぐには眠ることが出来かねた。一度、二度寝返りして、ふと眼を開いて見れば、自分の頭の上に一羽の白い鷺が羽根を斂め、頸を縮めて物を思うように、けろりと立っていた。夢でもなく、幻影でもなく、物の精でもなく、これは以前から此楼に掛けられてある一面の額の画であった。
鷺は夕暮れの小暗い所に立っている。燈火の光は弱々としてその暗さと同じである。画には魂魄があるのか、鷺は今まさに動き出そうとする。
つづく




