幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(134)
其 百三十四
「そりゃぁ、もう姉さんは何をなさろうと随意にお出来になれますから、姉さんの気性そのままで生活して行こうと思えば、そりゃぁそれで宜いんですが、私ぁまた私で、働きも意気地もないもんですから……」
「それで?」
「…………」
「あぁ、解ったよ! 恩を受けるなぁ可いようなもんだけれど、返しようの目的がないから困るとお思いなんだろう」
「困るというんでもありませんけど、まぁそうなの。何も姉さんが人に恩返しをしてもらおうなんていうような、そんな気を持っておいでじゃぁないのは分かり切っていますが、どうしたら私が嬉しいと身に染みて思っているこの気持ちを、何にすれば姉さんに見ていただくことが出来るだろうと思って、それが気になってならないのです。私ぁこんな宙ぶらりんの身じゃぁありますし、何一つやり遂げた技があるんじゃありませんし、これから前途何年だけ経ちゃぁどうなる身だっていうんでもないのですから、心にゃぁいつも思っていても、何時になったら、まぁ些細ばかりでもお礼らしいことが出来るんだろう! と思うと、何だか味気なくなって、私の行く末が情けない、果敢ない――薄暗い路を薄寒い日に辿るような、何とも言えない心細いような気がして、とても自分の気の済むだけのことをして姉さんに見ていただくことなんかは、一生掛かっても出来ないような可厭な感がするんです。こう言ったらお笑いなさるでしょうが、嘘じゃぁないのです。今になって叔母が言いました言葉が妙に浮かんできて、前途も見えやしないのに、うかうかと日を過ごすより、鋤や鍬を担ぐ男でも可い、実直な堅い人を、自分の一生の柱として頼み、真っ黒になって働いて、そうしてたまには姉さんのところへ大根や竹の子を持って来て、これは私が作りました、これは私の裏の藪で掘りましたっていうようなことを言って、ほんとにお龍がまぁ田舎者になりきっておしまいで、何と好いお土産をおくれじゃぁないか、とお富さんや何ぞと笑い合いなすって頂くようなそんな身になってしまったら、いっそその方が宜いかしらと思う気さえしますが、まさかそうも思い切れないで……」
真面目に言う言葉は笑声に打ち消された。
「ホホホホホホ、可笑しなお龍ちゃんだよ、ホホホホホホ、何だネェ、急に歳をお取りだネ。詰まらない! 湿っぽい、そんなことを言うものじゃぁないよ。大根や竹の子なんかは私ぁ可厭だよ。女は亭主次第じゃぁないか。立派な亭主を持って、大根なんかじゃかく、私にゃぁ金剛石の首飾りでもなんでも沢山おくれ! 買い物は勝手にするものだぁネ。それと同じで男子も選り好みをすれば宜いじゃぁないか。腕のある確固した男さえ持ちゃぁ何もかも湧いてこようじゃぁないかぇ。そりゃぁ、お前の胸ん中に働きのある好漢が無いもんだから、そんな陰気臭いことを言うようになるんだよ。いくら好い人でも手腕の無いなぁ、亭主にしようとすりゃぁ淋しくっていけないよ。あの人なんぞはまぁ抛擲っておいて探してごらん、いくらでも好い男はいるよ。お前に一人見せてあげようかネェ。(*1)その男ならきっとお前の行く末を春の日に好い海辺でも歩かせるようにするに定まっているよ。それに引き代えて水野っていう人ネ、あの人ネ、あの人と連れ立っちゃぁ、お前はきっと、薄暗い路を薄寒い日に辿るようになるよ」
*1 お前に一人見せてあげようかネェ……具体的には語られていないが、この時、お彤の胸にはある一人の男があったのである。これは最後まで明らかにされないけれど、読んで行けば想像がつく。
つづく




