幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(131)
其 百三十一
自分の眼の力が及ばない闇夜に歩が進まないように、お龍は鬼胎を抱きながら室に入ってみれば、朝日の光のあるところには自然と心強さを感じるというもので、先ずお彤が平常にも増して威厳を示し、沈着き切った表情に、雲の影などまったく掛からないような状態を見て、お龍は勇気を得、その横手の方に少し下がって座り、色々な思いが小波立つ胸を鎮めながら、言葉はないけれど丁寧に挨拶をした。
ちらりと見たお関の顔色は、お春やお富の言葉とは違って、思いの外平穏なのを心密かに疑いながら、徐に頭を上げれば、これはまたどうなっているのか、お関は満面に春を湛えた表情で、さもさも親しげにまた懐かしげに、
「マァ、立派におなりなこと! 吃驚してしまったよ。少し粋だけれども全然これじゃぁ立派なお邸のお嬢様だよ。好いことネェ、お龍ちゃんは大変な幸福をおしだねェ。ほんとにマァ見違えてしまうよ。平常でさえこうじゃぁ、外へでもお出の時はマァどんなに見事におしだろう! ほんとにお前さんはマァ大変な幸福な身におなりネェ。私の所何ぞにおいででごらん、いくら私がやきもき思って好遇してあげたからって、精々外出衣が銘仙か節絲くらいな物で、それより上ぁ私が千円の籤にでも中ったら知らないけれど、まぁまぁお前さんに御召縮緬なんか着せてあげることぁ出来っこはありゃぁしないのに、お正月でもなけりゃぁお節句でもない日に、そういう衣服をしておいでのようにおなりたぁ、真実にマァお前さんは大変な幸福ネェ。それもこれも悉皆こちら様のお庇蔭で、私等の働きやお前さんの力じゃぁ、鯱鉾立をしたって出来るこっちゃぁありませんよ。だから真実に仇や疎略に思ったぁ済みませんよ。何でもこちら様の仰る通りに身を粉にしても働かなくっちゃぁ済みませんよ。もしお前さんの仕方に至らない所でもあろうものなら、こちら様じゃぁ容赦ってお置きなすっても、私が承知しやしない、そんな心算でいるからネ、必ず私が出て来てお前さんを折檻するとお思いよ。ハハ、ホホ、ハハハ、オヤマァこれぁ下らないことをいったものだネェ、お龍ちゃんが手抜かりをするような人みたいに! ハハハ、だが、ただこれぁそれ程までに私ぁこちら様をお前さんに取っちゃぁ有り難いと思ってるという気持ちを打撒けただけなんさ。ほんとに戯談じゃぁありませんよ。身に染みて有り難いと思わなくっちゃぁ罰が当たりますよ。私もネェ、お前さんから縁を牽いたお蔭でもってネェ、こちら様のような結構な方にもお目にかかったり、それからまた種々優しく仰って戴いたりなんかして、こんな嬉しいことはありませんのですよ。どうかネェ、お前さんからもようくお礼を申してネ、そしてネ、今後も時々はお邪魔でもお出入りさせて戴くようにネ、どうかお前さんからもようく願って下さいよ。そして、私ぁまたお前さんに一つお願いがあるのだがネ、ナァニ面倒なことでも何でもないんで、ただ今度他へ出る時、ちょいと回り道をしてネ、汚くっても私の宅に寄って、お茶の一つも飲んで行ってもらいたいのさ。ただもう、お前さんがこんなに立派におなりだということを誰かしらに見せて、私が思いっきり天狗になって威張りたいんだから。ア、それからまた、こんなに何不足ない結構なところへおいでなのだから、何もかも要ることはおありじゃなかろうがネェ、私の所にお前さんのこざこざした物や何かがそのままあるが、彼品は悉皆明日にでも持たして寄越しますからネ」
と、追従やらお世辞やらを混淆に、丁寧と粗略との虎斑な言葉遣いに、何か分からないが無性に機嫌好く饒舌り立てられ、お龍はただただ煙に巻かれて、すべてが自分の思いの外であったことに返事さえ戸惑いながら、どうやって応対えばこんな虎のようなお関を、甘えて戯れる猫のように出来たのかと、不審に堪えぬ眼でお彤を見るのだった。
つづく
 




