幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(130)
其 百三十
ここに居よと言われては、逆らうことも出来ず、お龍は室に残り止まり、三味線の絃を戻し緩めなどしながらも、自分のことでやって来たあのお関のことが気になってならなかった。そこらを取り片付けるお富をちょっと見て、
「お春さんの言ってたように、ほんとに怒っていて?」
と、訊けば、お富はさもその人を厭い嫌うというように、そうでなくても淋しそうな顔を妙に皺めて、
「ほんとに恐ろしくぶりぶりしていますの! まるでお酒にでも酔った人のような顔をしまして」
と先ず答えて、
「何だか自分勝手な理屈の通らないことでも言いそうな可厭な人ですことネェ」
と言葉を添えた。
「マァ可厭だことネェ! そんな風に見えるほど恐ろし怒った顔をしていて?」
「そうなんですよ、怒り切っているという顔つきなんです。それに元々が地腫れのしたような顔なんでしょうかネェ、随分おそろしく膨れかえって、宛然……」
「宛然、何なの? 自分だけ承知したように笑って」
「マァ止しておきましょう。他人様の悪口なんか」
「ホホホ、おかしな人ネェ、一人で納得して、一人で可笑しがったりなんかして」
「ホホホ、でも悪うございますもの」
宛然河豚が五合も引っ掛けたようだと言おうとしたのか、風船球に眼鼻を付けたようだと言おうとしたのか、終に口を開かないので、知るのは当人の胸の中である。
「マァ堪忍しておいて頂戴よ」
と軽く謝び、それ以上訊かれるのを避けるように、お富は楼下へ去って行った。
人がいなくなって、室は静かである。桐を刳り抜いた小さい手爐を手許にして、雪のように白い蠣灰(*1)に細い火箸でもって訳もなく仮名文字を書いては消し、書いては消ししながら、お龍はじっと一心に楼下で取り交わされている談話の成り行きを思った。
『あの勝手の強い、欲の深いお師匠さんが、さてどんなことをお言いなのだろう。そりゃぁ、もう智慧も分別も確固しておいでで、また物言いだって決して拙いことなんかはお言いでない姉さんのことだから、誰を対手にしたって訳もなく捌いておしまいなさるには違いなかろうが、対手が無茶な人なだけにお困りなさりはしまいか、自分の勝手尽くに掛けちゃぁ理屈や情合いに構っているような、そんな上品な人じゃぁなさそうなあの人を対手にして、下らない悪口や無理な難題でも言われて困っておいでではないかしら。対手が無茶な人でさえなければ宜いのだけれども、男にでも何でも負けてはいないような気の強い人ではあるし、また大層怒り立って来たのだと言うし、大体が勝手の甚い甚い人だから、いくら姉さんが怜悧でも扱い難いかと思われるが、まぁどんなことを言ってきたのだろう。もしも下らないことを言って哦鳴り立てでもされた日には、ほんとに姉さんにお気の毒で、私はまぁどうしたら宜いのだろう。どうかあの人が姉さんの言うことを解ってくれれば宜いのだが。いくら姉さんでも対手が悪いから何だか覚束ないような気がしてならない。あぁ、気が揉める。一体まぁ、今日の談はどう結局がついて、そして私はまぁこれから前途どうなって行く身なのだろう』
と、取り留めもなく心配して、耳は彼方に伸ばすけれど、距離が隔たっているので音も聞こえず、此家は人もいないように静かである。
ややしばらくして、階段を上ってくる人の跫音がし、やがてお春が襖を開いて顔を出すと、
「私に来いって?」
と、お龍はこちらから問いかけた。
「ハイ、そう仰いましたので」
今になって胸がだくつくように覚えて、話の模様を測りかねながら、お龍は却って直ぐには立てなかった。
*1 牡蠣灰……牡蠣の殻を焼いて作った粉末のもの。石灰の代用。
つづく




