表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
61/88

幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(130)

 其 百三十


 ここに居よと言われては、(さか)らうことも出来ず、お龍は(そこ)に残り止まり、三味線の(いと)を戻し(ゆる)めなどしながらも、自分のことでやって来たあのお関のことが気になってならなかった。そこらを取り片付けるお富をちょっと見て、

「お春さんの言ってたように、ほんとに怒っていて?」

 と、訊けば、お富はさもその人を(いと)い嫌うというように、そうでなくても淋しそうな顔を妙に(しわ)めて、

「ほんとに恐ろしくぶりぶりしていますの! まるでお酒にでも酔った人のような顔をしまして」

 と()ず答えて、

「何だか自分勝手な理屈の通らないことでも言いそうな可厭(いや)な人ですことネェ」

 と言葉を添えた。

「マァ可厭だことネェ! そんな風に見えるほど恐ろし怒った顔をしていて?」

「そうなんですよ、怒り切っているという顔つきなんです。それに元々が地腫(じば)れのしたような顔なんでしょうかネェ、随分おそろしく膨れかえって、宛然(まるで)……」

宛然(まるで)、何なの? 自分だけ承知したように笑って」

「マァ()しておきましょう。他人様の悪口なんか」

「ホホホ、おかしな人ネェ、一人で納得して、一人で可笑(おか)しがったりなんかして」

「ホホホ、でも悪うございますもの」

 宛然(まるで)河豚(ふぐ)が五合も引っ掛けたようだと言おうとしたのか、風船球(ふうせんだま)眼鼻(めはな)を付けたようだと言おうとしたのか、(つい)に口を開かないので、知るのは当人の胸の(うち)である。

「マァ堪忍しておいて頂戴よ」

 と軽く()び、それ以上訊かれるのを避けるように、お富は楼下(した)へ去って行った。

 人がいなくなって、(へや)は静かである。桐を()り抜いた小さい手爐(てあぶり)手許(てもと)にして、雪のように白い(かき)(はい)(*1)に細い火箸でもって訳もなく仮名文字を書いては消し、書いては消ししながら、お龍はじっと一心に楼下(した)で取り交わされている談話(はなし)の成り行きを思った。

『あの勝手の強い、欲の深いお師匠(しょ)さんが、さてどんなことをお言いなのだろう。そりゃぁ、もう智慧も分別も確固(しっかり)しておいでで、また物言いだって決して(まず)いことなんかはお言いでない姉さんのことだから、誰を対手(あいて)にしたって訳もなく(さば)いておしまいなさるには違いなかろうが、対手(あいて)が無茶な人なだけにお困りなさりはしまいか、自分の勝手()くに掛けちゃぁ理屈や情合いに構っているような、そんな上品な人じゃぁなさそうなあの人を対手(あいて)にして、下らない悪口や無理な難題でも言われて困っておいでではないかしら。対手(むこう)が無茶な人でさえなければ()いのだけれども、男にでも何でも負けてはいないような気の強い人ではあるし、また大層怒り立って来たのだと言うし、大体が勝手の(ひど)(ひど)い人だから、いくら姉さんが怜悧(りこう)でも扱い(にく)いかと思われるが、まぁどんなことを言ってきたのだろう。もしも下らないことを言って()()り立てでもされた日には、ほんとに姉さんにお気の毒で、私はまぁどうしたら()いのだろう。どうかあの人が姉さんの言うことを解ってくれれば宜いのだが。いくら姉さんでも対手(あいて)が悪いから何だか覚束(おぼつか)ないような気がしてならない。あぁ、気が揉める。一体まぁ、今日の(はなし)はどう結局(おさまり)がついて、そして私はまぁこれから前途(さき)どうなって行く身なのだろう』

 と、取り留めもなく心配して、耳は彼方(かなた)に伸ばすけれど、距離が隔たっているので音も聞こえず、此家(いえ)は人もいないように静かである。

 ややしばらくして、階段を上ってくる人の跫音(あしおと)がし、やがてお春が襖を開いて顔を出すと、

「私に来いって?」

 と、お龍はこちらから問いかけた。

「ハイ、そう仰いましたので」

 今になって胸が()()()()ように覚えて、話の模様を測りかねながら、お龍は(かえ)って直ぐには立てなかった。



 *1 牡蠣灰……牡蠣の殻を焼いて作った粉末のもの。石灰の代用。



つづく

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ