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幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(125)

 其 百二十五


(うずら)という鳥は自分の身体から出る香気(におい)を止めて、猟犬(かりいぬ)()ぎ出されないようにする機能(はたらき)を持っていると銃猟者(とりうち)に聞いたが、お彤、お前は大体が嫌に落ち着き払っていやがって、そして時々鶉のような芸をする奴だなぁ」

 とは、かつて筑波が泥酔した後に罵った(ことば)であるが、(いい)ことに()っても歯茎を()せて笑うようなことをせず、(わるい)ことに遭っても眉を(しわ)めて沈み込むほどまでは悲しまず、何時(いつ)も自分の顔つきに(むら)がないようにと心掛けている訳でもないだろうが、胸の中を判然(はっきり)他人(ひと)に読めるようには顔に出さないお彤も、烟草(たばこ)にも烟草の虫がいるのと同じで、やはりある(おり)には心の苛々(いらいら)を全面に現すものである。 

 何時(いつ)のことだったか、ある劇場(しばい)で西洋婦人の奇術の興行があった時、

「姉さん、大変面白いという噂ですから連れて行って見せて」

 とお彤に請求(ねだ)ると、

「観たけりゃぁお前一人で行ってご覧な。魔術(てじな)は私ぁ大嫌いだよ」

 と、にべもなく言われたことがあって、それ以来お龍はふと気づいたのである。差し当たって自分の頭で何とも解らないことにあえば、お彤は非常に面白くないと思うようで、必ず可厭(いや)な可厭な顔をして不快さを示すことを。

 何が悲しくてお春は泣くのか、誰もその理由(わけ)が分からないけれど、同時に誰もまたその理由(わけ)が分からないのを何とも思わないのを、お彤は例の調子で、自分の納得の行かないことを強く忌々(いまいま)しがって、その理由(わけ)を知りたいと、やり切れなく、苛立っているようである。本当に転瞬(まばたき)するほどの一瞬であるが、星のような両眼をやや寄せて上眼使いをしたその様子に、何とも言えない可厭(いや)なところが見えて、象牙(ぞうげ)(ぼり)の小町のような申し分のない目鼻立ちの美しさをも人に忘れさせるものがあった。

 そのことに気づいていたので、お龍ただ一人はお彤がその不快そうな顔をしたのを早くも見たが、他の人々がそれに気がつかない間に、その人は(また)たちまち元の様子に戻った。

 お彤はもうお春には(ふたた)び構わず、お富に命令(いいつけ)ると、お富は心得て、皆に茶を勧め、菓子を薦めなどしていたが、その(うち)しばらくして、お杉はお春に何かを語りかけ、やがてお杉は次の間にやって来て打ち笑いながら、

「お春さんが泣いていたのはこうなのでございますよ。ほんとに可憐(かわい)らしいじゃぁございませんか、あの、こうなのでございます。お富さんていう方が帰っておいでになれば、私はお暇になるでしょう。せっかくこんな好いお(うち)へ来合わせたのに、また吾家(うち)へ戻って行くのかと思うと余りにも情けないと。今伺っていれば、結構なお道具をお富さんという方が粗忽(そそう)なすっても、器物(しなもの)よりゃぁ人が可愛いと仰ってお叱言(こごと)も無くって済みましたが、そのお優しいお話しを伺っている(うち)に私ぁ胸が痛くなって参りました。つい先月の末、詰まらない茶飲み茶碗一つ、私が粗忽(そそう)して()りました時は、そりゃぁ継母(ままはは)のことですから仕方もないのですけれども、私ぁ一時間も二時間も口汚く叱られました上、終いにゃぁ性根(しょうね)が付くようにって火の()いている煙管(きせる)雁首(がんくび)をじっと手の甲に()し付けられました。今のお話を伺っている(うち)にそのことを思い出しましたら、私ぁ猫になっても()うございますし、御膳を頂かなくっても宣うございますから、どうかこちらのお(うち)のどこかの隅へ置いて頂きたい気がして、……どうせ何にも知りませんのでお役には立ちませんし、無益(むだ)ですから、置いては下さいますまいって、それで、つい、泣いてしまったというのでございます。ほんとに聞いてみますりゃぁ継母だもんですので愍然(かわいそう)でございますが、猫にでもなりたいなんて言うんですもの、ホホホ、何ぼ何でも可笑(おか)しゅうございます。しかし、それにつけてもよくよくのことだと思われます」

 と告げた。

 聞けば何でもないことだったので、お彤は晴れやかな顔をして、

「ホホホ、何かと思ったらそんなことなのかぇ。愍然(かわいそう)に、そんなに居たがるものなら置いてあげましょう。怜悧(りこう)で、そして毅然(しっかり)としたところがあるなかなかの好い児だから」

 と言えば、その(ことば)を聞いて、物陰に居たお春はどれ程嬉しく思ったか、誰も前に居ないところで、ただ主人の方に向かい、畳に手を付き頭を下げてその恩に感謝した。

 先刻(さっき)からその始終を見聞きしていた、お富は言うに及ばず、お富の父、お龍、お龍の叔母、お春、お杉に至るまで、誰もが今、寛大(おおよう)にして(なさけ)のあるこの家の美しい女主人に心を寄せた。あぁ、お彤は一つの(うつわ)を失って、六人の心を得たのであった。

 お彤も流石(さすが)に心楽しくなり、鶉のような芸をすると言われた人ではあるが、例の落ち着き払った顔つきの、口の辺りに見えるか見えないほどの笑みを(たた)えた。


つづく

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