幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(122)
其 百二十二
「好くお出でだった。さぁ遠慮しないでこっちへお入り」
とお彤に優しく言葉を掛けられて、老人は漸く頭は上げたものの、
「ハイ、ハイ」
とだけしか言わず、なおもなかなかその場から動こうとしない。
「お富はどうしましたえ?」
と親しげに復問われて、
「ハイ、ハイ。イエ、どうも不都合な奴でございまして、何とも、ハヤ、どうも申し上げようもございませんで」
と、脱け上がった額、細い鼻、ただでさえ貧相な顔に虚偽のない当惑の表情を現し、甚く恐縮して同じようなことばかり言うのには、傍目のお龍でさえもどかしく聞こえた。
身に光沢もなく、気に張りもなく、ただ老猫が寝ぼけたようなこの老人の様子をお彤は心底可笑しがってか、唇の辺りにちらりと笑いを上らせたが、直ぐに自らを抑えて、
「そんなに謝罪ってばかりおいでじゃぁ話が出来ませんよ。どうしたのだぇ、お富は?」
と極めて平穏に問えば、老人はその言葉に辛うじて力を得たと見え、
「ハイ。イエ、どうもとんでもない大変な過失を彼女がいたしまして」
と言い掛けて、復丁寧に頭を下げた。
笑うべきことではないが、何となくその真面目過ぎの、萎縮過ぎた様子が、気の毒らしさも通り越して、ちょっと可笑しくもあり、お龍は思わず眼だけで笑ってしまった。
「そんなに謝罪ってばかりいないでも宣うござんすというのに」
「ハイ、イエ、そう仰って下さいますと、いよいよ恐れ入りますので。廻りくどうございましょうが、お詫びを申し上げます。何卒お聞き下さいますように。もう、これお詫びにも出そびれて十日ばかりになりましたが。さよう、エェト、コーと、ちょうど今日で十一日になります。彼女が貴女、真っ青な顔をして駆け込んでまいりまして、ご主人様のお大切なお菓子鉢を仕舞おうとする時、つい取り落として割ってしまったと申すのでございます」
「ハァ、大方それでそのままここを出て行ってしまったのだろうと私も思っていたが、今に何とか言っておいでだろうと思って人も遣らなかったの。そうです、古渡りの絵南京のちょいとその辺には無い鉢を破ってしまったので」
「ハ、ハイ、ハイ。どうもとんでもない粗忽をいたしましたことで。それは利斎(*1)とか仰る方が納めました品でございまして、その折色々とそのお方がそのお器が結構なものであるとお話をなさいましたのを、ちらちら彼女が承っておったそうで、何も分かりません彼女でも、大層結構な貴いお品だということだけは存じておりましたので、これはお詫びのしようもないことをしたと、ハッと胸を衝いたと申すのでございまして。どうも何とも相済みませんことで。ハイ、ハイ。それから私が貴女、代わりの品を差し出しましてご勘弁を願おうと存じまして、彼女と二人で東京中を捜しましたが、なかなかどういたしましても似たような品もございません」
「まぁ詰まらない。そんな余計な苦労をしてもらおうとも何ともこっちじゃぁ思っていもしないものを!」
「ハイ、ハイ。まことにどうも恐れ入りましたことで。そう仰って下さいましても、それでは済みません訳で。貴女、彼女がこちらへ参ります前にご奉公いたしておりましたお邸は伯爵様とかでいらっしゃいましたが、そこでは総て、女中が毀しましたものは皆その毀した者が償うというお定規でございまして、彼女なぞは頂戴するものが少のうございますから、いつも持ち出しになりますようなことでございましたくらいで」
「ヘーエ!」
「でございますから貴女、私は一生懸命に捜しまして、終いには利斎という人まで尋ねまして仔細を話しまして、これこれの鉢が欲しいと申しましたところ、今欲しいと言っても今あるものでもないし、あったにいたしてもこれこれの値のものだと承りまして、私たちの力では及びかねます大変なものでございましたので、いよいよ吃驚いたしまして、とてものめのめとお詫びに出られたものではございませんが、死ぬような気になってやっと今日お詫びに出ましたので」
ここまで言い掛けて、埋まるように畳に頭を擦りつけた時、薄い髪の下に透いて見えた頭の地には、弱い心でどれほど苦しく感じていたのだろう、慚かしさと切なさに絞り出された熱い汗が点々と玉になって、蒸気さえもほんわり立っているようにも見えた。
*1 利斎……駒沢利斎。江戸時代に興った千家出入りの指物師が代々継承する名跡。
※ はっきりとは書かれていないが、ここに登場する老人は、かつて浅草の観音堂で出会った水野に普門品を手渡した人物であるように思われる。
つづく




