幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(119)
其 百十九
「そうまぁお龍ちゃんも叔母さんのお言いのようにばかりはなるまいけどもネ、ネェお龍ちゃん、聞けばお前もあのお師匠さんていう人の胸の中が解っていない訳じゃぁないのだから、他のいろいろなことは後廻しにして置いて、どうだェ、あすこを出ることだけは、まぁともかくも出ると決めては」
もとよりお関には密かに愛想を尽かしていたので、あそこに居たいとは微塵も思わない。それに、お彤にこう優しく言われては背きようもない。しかし、今あそこを去って離れるのは、春の野歩きをした際、何となく乗ってしまった田舎渡しの襤褸舟の、そこから振り返って見た岸に、落ちこぼれた菜の花がしおらしく咲いて、歪んだ茅屋の裏口に桃の盛りの風情などを見出すと、何時までも眺めているものではないとは思いながらも、今少時は見ていたいと思う気持ちも出て来て、野川の幅は小さいので、早くもさぁ着いたぞと逐い立てられる時、猶も未練がましくその舟の中が恋しいような心地もして、直ぐには何とも答えにくかった。しかし、何でもお見通しのお彤に、あそこを去ってしまうのは自分から水野と縁を無くしてしまうため、それが厭で、みすみす悪い人だと分かっているお関の許に居たがるのだろうと思われるのも何だか気が重く、
「そりゃぁ私だってあすこに居たいことはありませんが、でもあすこを出てからの私の行き先が定まらなくちゃぁ」
と、僅かな語で、煮え切らない答えをすれば、
「だからこちら様に置いて頂くように私が願っているではないか、分からないネェ、お前って人は!」
と横合いから叔母は焦燥に焦燥る。
「ホホホ、叔母さん、そんなにお急きなさらなくってもいいじゃぁありませんか。じゃぁお龍ちゃん、お前もあすこに居たいことはないのだから、あすこは出ることに定めてお置きで、そしてその次にお前の行く先を納得いくまで考えりゃぁ宜いじゃぁないか。何日だったか、何かの話の序でに、私ぁ自家が富裕でお嬢様でいられるような身なら、絵を描いて一生遊んでいたいとお言いのことがあったが、今でももしそんな気持ちがあるなら、そして絵でもってやっていこうというような気でもおありなら、そりゃぁそれでもって私がどうでもしてあげるが……。遠慮無しに何でも思う通りを言ってご覧な。絵を習おうというような気も今じゃぁ無いの? 習やぁお前はきっとできる人だよ」
「いいえ、もうそんなことは些とも思ってやしませんわ。これでも自分の天稟が大した上手になれないくらいのことも分からないほど馬鹿じゃぁありませんもの!」
「じゃぁ、鳴り物は? 大体お前の性に合ってはいるし、身に染みてほんとに好きじゃぁあるし、もし音楽でも学ってみようと言うような気何ぞも無くって?」
「まぁ、厭ですネェ、人に教えたり人に訊かれたりするのは私ぁあんまり好きじゃぁないんですもの!」
「ホホホホホホ。他にお龍ちゃんの好きなことは無いし、じゃぁ芸事で身を立てようって気もまぁ無いのだから、修行事なんかは一切お止めなのだネェ」
「だって今さら、何かして一人でどうのこうのしようっていうようなことは思ってもいないんですもの!」
つづく




