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幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(74)

 其 七十四


 下物(さかな)は言うまでもなく新鮮な物だけを揃え、酒はこれもお定例(きま)りで必ず()じり気のない美味(うま)い酒を出す。島木の性情(こころ)が見える待遇(もてなし)に、日方は早くも酔って、顔を染め、大胡座(おおあぐら)をかいて坐っている。軍服の(いか)った肩、五分刈りの大きな頭、姿勢(すがた)はまだ崩さず(ごう)(ぜん)として、葡萄酒の入った器を手にしながら、親しい仲の打ち解け話に自然と沸き上がる(よろこ)びの色を浮かべて、

「アァ、()い気持ちだ、実に()い酒だ。いつも葡萄酒とは贅沢な奴だ。羽勝が断ってきたのは残念だが、酒は好し、主人の貴様も好い男児(おとこ)だし、客の俺も一端(いっぱし)益荒男(ますらお)だし、談話(はなし)が面白いので小気味(こぎみ)好く酔った」

 そう言ってから、満足げに仰ぎ飲み干せば、島木は例の布袋顔(ほていがお)して笑い、

「ハハハ、好い男児(おとこ)たぁ有難てぇナ。だが乃公(おら)ぁ貴様にゃぁ卑劣漢だと罵られて、(なぐ)られたことがあったじゃぁねぇか。ハハハ貴様の言うことも当てにゃぁならねぇ、やっぱり相場と同じで上げ下げがあるナ」

 と、冗談めかした。

「ハハハ、何でも(かん)でも直ぐに自分の道に牽強(こじつ)けるナ。イヤ、時の相場じゃぁない。真実(ほんとう)のことだ。まったく貴様は好い男児(おとこ)だ、いわゆる好漢って奴だナ、快男児だナ」

「ハハ、大層風向きが好いが奢らねぇぜ。何でまたそう急に値が上がったのだ」

「羽勝から聞いてみんな知ったぞ。よく貴様ぁあの馬鹿野郎の水野を、自分の危なかった間際にも(かか)わらず世話をしてやったそうだナァ。流石(さすが)に島木は島木だ。好い気性だ、と真面目に感激して羽勝が話していたぞ」

「ハハハ、それで貴様ぁ萬五郎に惚れたか」

「ン、惚れたナァ、ははは。この日方八郎も大いに惚れ込んだぞ」

「嫌なやろうだナァ、好かねぇ奴だ。いくら惚れやがっても()退()けてやるぞ」

「何故だ?」

「惚れ方が大体気にくわねぇからさ」

「フーン、そりゃぁまた何で」

「それが分からねぇかぇ、仕方がねぇナァ。後学のために(おぼ)えておきねぇ、惚れるのに理由(いわれ)があるようじゃぁ真物(ほんもの)じゃぁねぇんだ。同じこの萬五郎に惚れるならナァ……」

「ウン」

乃公(おら)が悪いことをし尽くして、誰にも彼にも見放されてナ、溝ん中へでも蹴り込まれたような時、萬ちゃん、萬ちゃんって言ってくれろヤイ。そうしたらその時ぁこの萬ちゃんも、些少(ちった)ぁ惚れ返してやってもいいってもんだ」

「ワッハハハハハ、(えら)い気焔じゃないか。胸のすくような言いっぷりだ。皮肉もそれくらいになると愛嬌が出て面白い。アァ愉快だ、大いに笑ったので、馬鹿に酔った。よし、久しぶりに一つ朗吟(うなる)ぞ」

「よかろう。長いこと貴様の怒鳴るのも聞かなかったナァ」

蒲海(ほかい)の――(あかつき)の――霜は――、馬の――尾に――()り――、葱山(そうざん)の――(よる)の――雪は――、(はた)の――竿(さお)を――()つ――。エースト」

「鯨が鳴くような馬鹿声だナァ、障子が破けるからもう堪忍してくれ。此辺(ここいら)の奴ぁ目を廻さぁ。しかも唐人(とうじん)囈語(ねごと)みたいでちっとも分からねぇ。(いくさ)の詩の文句かェ」

「ウン、そんなもんだ」

「あるのかい? いよいよ戦争(どんちゃん)は」

「そんなことは俺達より、貴様等相場師なんぞの方が(かえ)って知っているということだぞ」

 こう言い終わった時、日方はたちまち厳しい表情になって、

「いかんナァ、世の中がこんな有様では! 実に嘆かわしい」

 と、島木に(むか)って語るでもなく、独りで嘆いていたが、急に気を変えて、

「丈夫――誓って国に許す、憤惋(ふんえん)――(また)何か有らん(*1)、だ。少尉やそこらで物を思うなぁ生意気なんなのだ」

 と自ら気を(くつろ)げたように笑った。

「時に島木! どうだ、今から一緒に水野の所へ行かんか。実は羽勝が来たら君を誘って、三人で訪ねてやろうと思っていたんだが」

「フーム、万一(ひょっと)すると貴様出征(でる)のかナ」

「イヤまだそれは実際分からんが、出るようになるにしても、出ないにしても、この頃の水野の顔色も見てやりたいし、少し話をしたいと思うこともあるから」

「じゃぁ、貴様の剛直なその気に任せて手厳しい意見をしようと言うんだナ」

「もちろんだ、恋愛だなんぞという下らないことに、もったいなくも水野を沈ませておいて、知らん顔をしていては友道(みち)が立たんと思う。(いさ)めて諫めてあの水野を、元の水野に(かえ)らせるつもりだ」

「そりゃぁ貴様、人情(じょう)としては厚い行為(ふるまい)だが、智慧が足りねぇことだぜ!」

「ナニ?」

「マァ下らねぇから()めた方が()い!」

「何だと!」


 *1 丈夫誓許國,憤惋複何有……男たるもの、心に誓って国のためにこの身をささげる以上、憤り、恨むような理由などありはしない。(杜甫の漢詩)

つづく

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