幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(115)
其 百十五
「最初っから言うとこうなのだよ、お龍ちゃん。それ、一昨年の夏のことだったね、これこれで今度叔母に伴れられて、厭だけれども静岡へ行きますからって、お前が暇乞いにおいでだったことがあった。それからというものは随分長い間、こっちから手紙をあげても返事は少ないし、たまにお遣しでも極々短っかいほんの義理済ましだけのことだし、これぁ何か知らないけれども甚く気を取られておいでのことがあるのだろう、と思っている中に今年の三月、ふらりっと私の所へおいでだったが、顔つきは全然変わってしまって、前に見た処女らしいところはなくなっておしまいだし、様子は何だか知らないがそわそわとしておいでで、私にお話しの談話にも辻褄の合わないところがあり、どうも気になることばかりだった。だから、私は心配して、少し置いてくれとお言いのことだから、あぁ宜いともと、表面は何にも気がつかない風にして家へ置いてあげたものの、どんなに色々と心配したか知れないよ。此家にいることを静岡へ知らせてはくれるなと、念に念を押してのお依頼だったけれども、今白状してお前に謝罪るがネ、どうも物の道理がそうはいかないと思ったので、お前には内密でもって静岡の叔母さんへ、これこれの様子で、こうこうしてお龍ちゃんは私の方においでだと、私が全部知らせてしまったのだよ」
ここまで話し掛けたとき、叔母はお龍を見て、
「それご覧、お前のような分からないものの言うことや、思うことばかりが何で通るものかェ。こちら様のような方はいくらお優しくっても角々は厳然と道理のある方へおつきになる。お前は知らないで好い気になっておいでだったろうが、ちゃんと私の方へお知らせ下すって、色々と御注意までして下さったのだ。七部通り、八部通り話の定った婿を嫌ってお前には出られる、どこへ行ったかも全く分からず、また短気を起こしてもしや川の中へでもかと、どれ程私が苦労して困り抜いたか知れない。そこへこちら様からの行き届いたお手紙で、やっと胸の凝塊が少し下がった。居所は知れたし、引っ捉えてとも思わないでもなかったが、どうせそれ程嫌っている婿ならば仕方がないからいっそ破談になすった方が宜しかろうし、破談になさるならまた当人がそちらに居ないで、どこへ行ったか知れないという形になすった方が事が済み易かろうし、もし強いて無理なことをなさるようでは却って当人のためにもならないかと思われるから、次第によったらしばらくこのままお預かり申しても宜い、とよく分かったこちら様のご親切な仰りよう。また、こちら様のお噂も予て聞いており、どういう方なのか納得もしていたので、とても私の言うことは聞き入れません我儘者でございますからもう諦めました。お甘え申して済みませんが、そういう訳でございますので、こちらの話も解けて済んでしまうまでお預かりを願います。なるほど、今私が出て参りまして当人に会っても何にもなりますまいから、ご迷惑でもございましょうが、それでは何分宜しく願います。もしまた当人が不心得などをいたして、ご厄介を掛けますようなことがございましたら、必ず引き取ります、とこんな風にお返事をしてお願いしておいたのだ。今解ったかェ、私の気持ちもこちら様のお考慮も。それほど私にもこちら様にも人知れず気を揉ませておいて、それなのに何だェ、月日も経たない中にまたこちら様を脱けだして、――妹のように思う、子のように思うとまで言ってくださるこちら様のご親切も、私はお前の真実の叔母だけれども、こんなにまで濃かにお前のためを思うことは出来ないくらい意を汲んでくださる有り難いこちら様のご恩をも全部余所にして、何が不足で黙って三絃の師匠だなんて、あんな悪い奴の所へ行った。これ、なぜこちら様を後にして稽古所なんぞの手助けをして自堕落に暮らしたのだェ。彼女ぁお前、お前に碌でもない男なんぞを取り持った狸婆じゃないか。性懲りもなくまだ浮気がしたくって、あんな奴に骨の髄まで喰われるのも知らないで、こちら様を出たのかェ。猫! いやらしい猫! ほんとにいやらしい猫! 猫だって畜われた恩を三日経ってから忘れるというのに、お前ぁ畜われていて可愛がられていて即時に忘れたのだ。私にもそうだった。こちら様にもそうだった。お前のような好い姪を持って人様の前で、私ぁほんとに肩身が広くってどんなにか嬉しいよ」
と、例の眼を動かし動かし、思うさま罵った。
つづく




