幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(111)
其 百十一
「じゃぁ姉さん、ほんとに受け合って下さるの」
お龍の眼は既に罪もなく悦んで微笑んでいる。
お彤はその様子を見て、却って微かに愁いを覚えた。
「あぁ、あの人が困らないようにするだけのことなんぞ、旦那に言うまでもない。私がどうにでも必定してあげるがネ。お龍ちゃんはまた何だってそうあの人のことに肩をお入れのだろう?」
「だって姉さん、愍然なのですもの!」
「ただ愍然だっていうだけで?」
「ハァ、そうですわ」
「本当にただそれだけ?」
「いやネェ、何だか異ァしな聞き方をなさるのネ」
顔は段々不安を現し、言は急いでその問いを遮り止めようとしたが、お彤は口許に見えるか見えないかの笑みを浮かめて、なお追求する。
「もしやお龍ちゃん、お前、あの人が好きになったのじゃぁなくって?」
「エ」
「ひょっとしたらお前、胸の底じゃぁあの人を思っているのじゃぁなくって?」
眼の前に白刃を閃かされたように、その一語によって急に胸が逼り立てられ、お龍はさっと顔を紅くし、
「あら姉さん、そんなことを言っちゃぁ私ぁ嫌ですよ。私ぁそんな気なんぞ、些とも持っていやしませんわ」
と明確とは答えたけれど、驚き慌てて狼狽えてどぎまぎする様子がありありと見えた。お彤は今度は嫣然と笑みを作って、
「本当?」
と重ねて問えば、お龍は早くも浮き立つ足を踏み堪え、身構えをして、
「だって、分かりきってることじゃぁありませんか。あの人はお五十さんていう人を思いに思い抜いているのですもの。横合いから私が思ったってどうなりましょう! いくら私が馬鹿だって酔狂だって、それくらいのことは分かっていますから、空店へ郵便を抛り込むようなことを何でしますものかネ。ホホホホホホ」
と、戯言まで言って、自ら笑って何気ない様子である。
お彤はお龍の言葉を信じたか信じないか分からないが、
「そうかェ、そんなら何ももう言うことはないのだがネ、私ぁまたお前があの人を好いてでもいるということなら、次第によっちゃぁお前のために一苦労して、お前の身の収まりの好いようにしてあげようかとも、最初にはふっと思ったのだよ」
「エ?」
全然思いの外の言葉にお龍は復驚かされながら、思わず心を動かし、答えるにも答え鈍っていたが、お彤は早くもその様子を見て取っていた。
「だがあの人はああだし、どんなものだろうかと思っている中、また別に一つの話が出て来たので、お前のためにあの人は棄てるものにした方が宜いと決めていたところ、ちょうどお前もそういう気だと今聞いて私も安心したよ。そうでなけりゃぁ、あの人を思ったって詰まらないということを言おうかと思っていたところだったよ」
その言うところは嘘か誠か、お龍はただ自分の心が蜘蛛の巣に搦められて行き、抵抗おうにも抵抗うべき力の入れどころも分からない中、次第々々に自由を奪われていくのを感じるだけであった。
「ネェお龍ちゃん、しようが無いやネ、ああいう人は。お前、あの人をどういう人だとお思いだェ? なるほど情もあろう、正直でもあろう、学問も出来ようがネ、一生の亭主にするにゃぁ、気むずかし屋で、貧乏性で、ヘチ頑固なところがあって、ありゃぁあんまり有り難くはなさそうだネ。といって、情夫にするにゃぁ、容貌は悪かぁないが、愛嬌の足りない、面白味の薄い、無粋な、世間を知らな過ぎる――どうもお前の相手にゃぁ些と不足な男じゃぁないか!」
つづく




