幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(110)
其 百十
お龍は自分の身の凡てにわたってお彤に及ばないことを知っている。第一、今の身の境遇はどうやってもお彤とは比べものにならない。持って生まれた容貌も最初から及ばないし、智慧は特に及ばないと分かっている。読書筆札にしても二、三年苦労、努力を重ねても及ぶことはない。挿花茶湯は言うまでもなく、自分が最も得意な三味線、あるいは彼女が最も苦手とする縫針すらもなお及ばない。人に負けることが大嫌いで、何事にしても人に後れを取るものかと思う自分ではあるが、何事にしてもお彤には及ばないと分かっていて、心の底から深く深く尊敬しているものである。しかし、ただ一ツ、情合の深い浅いということにかけてだけは、私かに姉と頼るお彤にも負けない気持ちがあって、自分は何かあった折には欲も得も何もかも棄ててしまう馬鹿だが、彼女は怜悧だけに同じその時にはそうはしない人だと、流石に崇め慕っているその人にも、その分、却っていささか物足りなさを覚えるものである。
であれば、今『それじゃぁあんまり怜悧過ぎて薄情じゃぁなくって』と、お龍が言い出したことは、唐突ではあったものの、遠慮もないその僅かな語の中に、お龍は自ずからの気性でもって、それほどまでに崇め思っているお彤に対しても、枉げられず屈せられないものを露し出し、抑えようとして抑えきれない不服の気持ちを知らないうちに洩らしたものであった。
お龍の持ち前の気性を知りきっているお彤は、飛び来る矢を幕でもって止め受けるように、柔軟な口調で問い返した。
「薄情じゃぁなくってッて。何故またネェ」
「何故って、姉さん。そりゃぁ私さえ退いてしまえば私の身の好いのは分かっていますが、それじゃぁあの人は否運まんまになってしまうので、やっぱりあの人は愍然じゃぁありませんか。ですからそれじゃぁ薄情になりますわネ。私ぁ詰まる詰まらないはどうだって好いんですよ。私ぁただあの人が愍然だからどうにかしてやりたいっていうんじゃぁありませんか」
「いいえ、お前の気持ちはもう悉皆解っているのだがネ、私ぁただお前の朋友のことで、お前の利益になることをしてあげたいのだから、――いいかェ、だから私ぁ前途の前途まで考えるので、お前が詰まる詰まらないを構わないなんて、そんなことは出来ないよ」
「でも、詰まる詰まらないで言ゃぁ、全部詰まらないわ! 私みたいに種々な目に遭ってきたものは生きているのからして詰まらないわ! どうせ私があの人を愍然だからどうかしてやりたいと思ったって、結局私にゃぁ何にもならない、――詰まらないなぁ分かっていますわ……。でも、私の気が届けば私の気持ちは納得しますわ。知らん顔で済ますなぁ薄情なような気がしますわ」
「オヤ、私ぁしなくちゃならないことをしないのが薄情っていうものかと思っていたが、お前のはしなくても済むことをしないのも薄情というのだネ」
「しなくちゃぁならないことをしないのは、そりゃぁ不義理ですわ。しなくても済むことでも、してやりゃぁ他人の利益になる、それをしないのが私ぁ薄情かと思っていますよ」
「お龍ちゃんのように言った日にゃぁ、お龍ちゃんの他の世間の人は悉皆薄情者のようになってしまうネ。ホホホ、まぁそりゃぁどうでも宜いが、それじゃぁまぁ、詰まっても詰まらなくっても水野っていう人は私が引き受けてどうにかしてあげるということにしておくがネ」
つづく
 




