幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(109)
其 百九
お彤はその美しい手で手爐の縁を撫でるともなく撫でながら、あらたまったように静かに口を開いて、
「お前の言うことは、ようく分かったよ。だがネェお龍ちゃん!」
と親しげに呼べば、お龍も
「ハァ」
と甘えるように軽く答えてお彤を見て、自分が姉のように頼もしく思っている人は何と言い出すのだろう、多分自分の頼みを聞いてくれるだろうとは思うものの、だがネェと言う発語に、少し憂慮気味の心配めいた眼をしてその顔を見た。
「なるほど、お前のお言いの通り、水野っていう人も愍然だし、お前のお師匠さんていう人の遣り方も悪いがネェ、お龍ちゃん、お前が何もあのお師匠さんの眷属というのじゃぁないし、また深しい関係のある免れられない仲というのじゃぁないしさ、お前があのお師匠さんのところから身さえ引いてしまえば、その話ぁ全然お前にゃぁ飛沫も飛んで来ない話になってしまって、たとえどんな喧嘩が始まるにしても、泥仕合が始まるにしても、あっちとこっちで勝手にやり合っていようっていう訳じゃぁないか。向こう同士ぁ一団になってこんがらがっている絲だよ。お前はその一団の中に入ってはいても、こんがらがってはいない。――引っ張ればするりと脱けてしまうことが出来る絲だよ。だから早い話を言やぁ、お前がそのこんがらがりの一団の中に入って、気を遣ったり目を遣ったりしてまごついているよりゃぁ、するりと脱けてしまった方がいくら好いか知れないよ。訳はないやぁネ、私の所へ来ておしまいな、以前のように私の所で長閑に構えて、小説でも読んで遊んでいるのが宜いじゃぁないか。あのお師匠さんていう人が何かぶつぶつ言ったにしても、金銭のぽっちりも与りゃぁ尻尾を振っちまう人だろうから、何にも難しいことはありゃぁしないわネ。お前のために好いようになら、どんなにでもしてあげるつもりなのだし、お前の身の上に就いちゃあ私も些と考えてることもあるんだし、またどこまでも引き受けて世話をしたいという道理もあるんだからネ。決して悪いことは言わないから脱けてしまったらどうだェ。第一お前の話でも分かっているお前のお師匠さんネ、そんな可厭な人と一緒にいて将来お前はどうしようって気なのだェ。お前ほどのものが何をお考えだネ」
「そりゃぁもう、段々あの人のお腹の中が読めて来ると、到底ずっと長く一緒になんぞいられる人じゃぁないのですし、私にした前々の所行もこのごろになってみりゃぁ合点の行く恨めしいことが沢山あるのですもの。ですから表面だけは綺麗にしていますが、些とも一緒にいたいことなんかありゃぁしませんの! ただ、今すぐにどう思ったところで、思ったようにもならない身だもんですから……」
「それで彼家にいるとお言いなのかェ。それご覧、あの人は前から私が推し量っていた通りだったろう、言わないこっちゃない。だから今お前にちやほや言って家に置いている料簡だって」
「つまり私を猿回しの猿にして、自分が食べようっている腹なんですよ。それくらいのことは私だって、気が付かないほどもう人が好くもありませんからネ。それを何時までも小児だと思って、馬鹿にしている気のお師匠さんの仕方にゃぁ腹が立ちますわ」
「ホホホホホホ、沢山苦労をおしだったから、前のお龍ちゃんじゃぁないものネェ。だがそう分かり切っていて、それであどけない振りをしておいでなんざぁ、お前の方がお師匠さんよりも人の悪さが一枚上じゃぁないか知らん、ホホホホホホ」
「ホホホホホホ、だって私ぁあんな心の悪い憎い人にだからそうしていられるのですわ。善いと思う人に対っちゃぁこれぽっちも作り飾りはしやぁしませんよ」
「ホホホホホホ、いいよ、誰もお前が真実に悪い人におなりだなんて言いやしないから。で、そういう訳ならなおのことじゃないか。一日も早くそんな人と一つお釜のご飯を食べ合って縁を深くするようなことを、しないようにした方が宜いじゃぁないか」
「そりゃぁそのくらいのことはもうようく分かってますが、じゃぁ、姉さんの考えでは水野さんのことは、まぁ一体どうしたら好いとお思いなんでしょう? 構うことはない、何もかも抛ってお仕舞いとお思いなの?」
お龍は恨むような口調で言うが、対手は何も感じないみたいに、
「一体水野って人は、ありゃぁお前の何に当たるのだェ?」
「…………」
「お前、あの人にそんなに肩を入れてどうしようってお思いなのだェ?」
「…………」
「考えてご覧、あまりにも詰まらなさ過ぎるじゃぁないかェ」
「……だって姉さん」
「だってじゃぁないよ、え、お龍ちゃん、私ぁ何だか意地の悪いことを言うようだがネ、ようく考えてごらんな。どうだェ、それ、お龍ちゃん」
「……だって姉さん」
「いいえ、だってやぁありませんよ。おく考えてごらん。詰まらないことは終局まで行ってもやっぱり詰まらないよ」
「だって姉さん……。だって姉さん……。でもそれじゃぁあんまり怜悧過ぎて薄情じゃぁなくって?」
つづく




