幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(73)
其 七十三
お龍が徐に三絃の絃を弛めて三絃掛へ掛け納めていると、今日奉公に上がった下働きのお熊は高麗鼠のようにくるくると働いて、しきりにそこらを取り片付けていたが、煙草盆の傍から玉の煙管の小さく可愛らしいのを拾い上げて、燈火近くに差し出し、
「これ、こんな物が遺ちておりました」
と言う。
一目見てお龍はそれを師匠に渡し、
「こりゃぁ伝さんが遺れて行ったのでしょう。あの人でなけりゃぁこんな物を持ってそうな人はありませんから」
と言えば、お関は受け取って指頭で弄び、
「あぁそうだよ、きっとあの男のだよ。今日は私もえらく早起きをしたし、お前も遠い所へ行って来たので草臥れているからっていうので逐い立ててやったもんだから、慌てて帰って行ったんで遺れたんだろう。取り上げてしまってやろうか知らん。ハハハ、マァ堪忍してやるとしよう。何でもあの男は親類内なんぞに玉や石の細工をする家かなんぞを持っているんだよ。ご覧よ、小さいけれど此品だって買ったら安くはなさそうなものだヨ」
と、一度はお龍に見せてから、火鉢の抽斗へ無造作に蔵った。
「ハァそうなんでしょうよ。兎をくれたんでも分かっていますよ。きっと叔父さんか何かが玉屋さんなんですネ」
「どうもそうらしいよ。私も往日瑪瑙の好い色の簪珠をもらったがね、お前、兎なんぞじゃしようがないじゃないか。今度は宝石入りの指環かなんか強請っておやりナ。金剛石とでも言ったら二の足を踏むか知らないが、サファイヤや真珠くらいならきっと二つ返事で悦んで持って来るよ。物を取ってやるのも功徳になるのだから、構やぁしない、吹っかけてごらん、相槌は私が巧く打って上げるから」
「あら嫌なお師匠さん! 私ぁ指環なんか欲しかぁないんですよ。しかも伝さんなんかにもらいたかぁありません」
「そうかネェ。お前はほんとに慾に掛けちゃぁ気が弱いよ。だが取ってやる方が可いじゃぁないか。あの兎でも分かるわネ、お前が気に入ったのを見てどんなに嬉しがってるか知れやしないよ」
「だから私ぁ厭なんですよ。その嬉しがられるのが気に障るじゃありませんか」
「ホイそりゃぁ、大失敗だネ、ハハハハハハ。指輪の談で思い出したが、先にお前があの源におもらいのは、お前まだ持っておいででないかネェ。私が見立てて買わせたんだからまだ記えているが、お前あれはどうかしておしまいかェ」
「だってお師匠さん、まだ私があれを持っている訳はないじゃありませんか。いよいよ不実な人だと思い詰めた時は、口惜しくって口惜しくって仕方がなかったんですもの! 宿めてもらっていた薬研堀のおとうさん――お師匠さんはご存じなさらないが私の仲良しのその家を出て、おかぁしな気になってふらふらと両国橋の上を往ったり復ったりしたその挙げ句、ふいと意持ちが変わってしまい、指から脱して、大川の流れの中へ抛り込んでしまったんですよ」
「ヘーェ、もったいないことをおしだったネェ、マァ私なら同じ棄てるにしてもお金にして棄てるものを。だが鋳掛松(*1)を色気で行ったのは、ちょっと覗いてみたいような場面だったネ」
「ホホホ、厭ですよ。たんとお嬲りなさい。人の悪い! 今なら私だって……」
「どうおしだェ?」
「お魚にゃぁ与らないで瞽女(*2)にでも与ります」
「考えたかも知れないが、やっぱり若いネ。ハハハ、瞽女がお前、逆巻く浪の彫に小さな宝石が散らばっているあんな華麗な物を指に穿めてどうなるものかネ」
「じゃぁお師匠さんが私だったらどうなさるの?」
お関は自分の鼻を指差しながら、
「ここにいる美麗な可愛らしい新造に与って悦ばせるわネ」
と言ってから、ハハハハハハと打ち笑えば、お龍もホホと笑い出し、台所の方に退いていたお熊までもらい笑いをした。
「あぁ、笑ったんで気持ちが佳いワ。さぁお熊や、あちこちの戸締まりをしておしまい。お龍ちゃんも帰路にお百度まで踏んでおくれじゃぁ、ほんとに随分おくたびれだろう」
好きに休めば良いと言ってくれるのだが、お龍は眠りたくもない眼つきである。
「足は些とばかり草臥れましたけれど、先刻お湯に入ったのでもう治りましたし、気は疲労も何もしやぁしません」
「いいねぇ若い人は! 恋も戦もその威勢のある中が花なんだよ。私なんざぁ四ツ木へ行こうもんなら二日くらいは腰が痛くて、しょぼけていなくちゃぁならないんだから」
「ホホホ虚言ばっかり! まだお師匠さんはお若いわ。そんなことを仰ぁっても水々としていらっしゃるじゃありませんか」
「オヤ、お前こそ人が悪いよ、お調戯でない。いいよ、どうせ奢らないから、ハハハハハハ」
「でもほんとうですよ」
喉が渇いていたのか、身体を伸ばして、及び腰になって火鉢の横手にある茶棚から小さい湯呑みを取り、鉄瓶の湯を注いで、ゆっくりとそれを冷まして飲むお龍を見れば、女として先ず目につくのが、髪の毛の漆のような黒さである。しかもふっくりとした鬢に、櫛の歯の跡が鮮やかに残って、肌理密かに色白の顔のほんのりと紅いのは、まさに清らかな芳野紙(*3)に包まれた珊瑚が透けて見えるようで、何気なく坐った身体がやや歪んで少し傾いたところに、細りとした領頸が大層しおらしく柔和かに見えて、物腰は冴え冴えとして艶っぽい。
お関は見惚れるように少時見詰めていたが、
「それはまぁ、どうでも可いとしたところで、やっぱりお前にゃぁこの頃、ご馳走をしなくちゃぁならない。ほんとにお前の心意気の好いのには感心しちまうよ。帰路には馴染みもないお五十のためにお百度まで踏んでくれるなんて、どうすればそんなに優しい気になって、しかも侠気なことが出来るんだろう。私ゃぁ全然お前にゃぁ惚れっちまったよ。お前さえ吾家に居ておくれなら、あんなお五十なんかどうなったからって関やぁしないよ」
「あらマァとんでもない酷いことを! お師匠さんのそう仰るのを本当にしたところで、五十子さんがお悪く御なさろうものなら、水野さんていう方が、どんなにお騒ぎなさるか知れません!」
「騒いだって可いやネ、騒がして置きゃぁ」
「まだ詳しいお話しを伺っていませんが、一体水野さんていう方はどういう方なの?」
「オヤオヤおかしいよ、お龍ちゃんは。今日お昼過ぎに家に帰って来てから、水野のことを訊くのはこれでちょうど三度目だよ。ハハハ、まさかお前のように分かった人が、あんな唐変木にどうかおしだとも思やぁしないがネ。よっぽど気になるような変な顔でもしていたのかェ。ありゃなんでもありゃしないのさ。ただ彼村の学校の教師でもって、平ったく言やぁお五十に惚れてるというだけの鈍痴気なんだよ」
「だって、そんなら私がお師匠さんのお使いに、わざわざあの人のところへ行かなくってもじゃありませんか」
「そりゃぁ、お五十のことの関係からネ、私も困窮った時にあの男に融通を頼んだこともあるし、今度も全然お五十が世話になっているからさ」
「じゃぁ、やっぱりつまりは五十子さんと一緒になる訳の方じゃありませんか。道理で心から底からご病人を大切に思っていらっしゃるように見えましたよ。ほんとに五十子さんはお幸福なこと! あんな頼もしそうな方に思われなすって!」
「ところがお前、いくらあの男が思っても、私の言うことさえ聞かないような、ヘチ頑固のお五十のことだから、嫌って嫌い抜いて、まったく構いもしないんだよ。あの男の思い何ぞは玻璃の上に書く字みたいなもので、いつまで経っても伝わりはしないのさ」
「でもお師匠さんは終いにゃぁあの人をお婿さんにと思ってらっしゃるでしょう」
「しかし、お五十が私の言うことなんか聞くんじゃないから仕方がないやネ。私ぁ打っ棄って置いても関やぁしないのさ」
「あら憫然に、それじゃぁあの人の立場がないじゃありませんか」
「だから唐変木で鈍痴気だと言うんだぁネ」
「何ですって!? マァ!」
優しい姿はそのままに、身動ぎは一寸もしなかったが、愛嬌の溢れる顔付きながら、じろりと斜めに上睨みして、お関を見やったお龍の眼には、憤るか恨むか蔑視むか、怪しい一種の気味合いが籠もって、花の樹蔭に蛇がふいと顔を覗かせた、そんな風にも似た表情を見せた。
*1 鋳掛松……講談の一つ。鋳掛稼業を継いだ松五郎、夏の暑い盛り、両国橋の下を見れば、どこかの金持ちが屋形船で芸者や幇間を従えて涼しく船遊びをしている。松五郎は真面目に働いても貧乏から抜け出すことの出来ない人間をよそに遊びほうける金持ちを見て、世の中の矛盾を感じ、いきなり持っていた道具を橋の下に投げ下ろし、以後盗賊に身を落とす。
*2 瞽女……各地を旅しながら、三味線と唄を聴かせる盲目の女性芸人。
*3 芳野紙……奈良県吉野地方産のコウゾを原料とした薄手の和紙。
つづく
 




