幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(108)
其 百八
「そりゃぁもう、きっとお前のお言いの通りだよ。そのお五十さんという人やお前のお師匠さんが、いつまでもいつまでもそういった調子でいりゃぁ、それ程までに思い込んだあの水野っていう人の落ちていく前途は知れているよ。学問もあるという人のことだから、まさか無分別なことはしないだろうけれどもネェ、あの人がもし愚人かなんかだと、それこそ怖ろしいことにもなりかねない話だよ」
「そうですとも。ほんとに! もしあの人が無茶な人だった日にゃぁ、きっと刃物でも持ち出しかねないと思いますよ。そうすりゃぁ、差し詰め吾家のお師匠さんがその標的にされる人ですネェ」
「あぁ、そうとも! お前のお師匠さんというひとは小な悪い人なんだけれど、やり方があまりにも罪なやり方だからネ、まぁ鯵切り包丁で突かれるくらいのことになっても仕方がないよ」
「ですが、あの人が無茶な人でないだけに、どう間違ったって下らないことなんかはしますまい。百のものならまぁ、九十九まではじっと堪えるだろうと思いますが、どこまでもじっと堪えて独りで苦しんで、思い死にしてしまうまで穏しくしているかと思うと、分別や堪え情がある人だけになおのこと気の毒で、ほんと何という愍然な人だろうと思わずにはいられません。それでもまだあの人が困らずにでもいたら、同じ胸の苦しい中でも気の楽なところもありましょうが、職務はなし、身体は閑になり、懐中具合は悪く、差しあたっては段々困ってくるというところで、その困るようになった原因のお五十さんは情無いし、お師匠さんは薄情極まりなくその地金を露して、一昨日お出で、というような返事をしたら、あの人の胸の中はまぁ、どんなになるでしょう。火と水が一緒になったようになって、いても立ってもいられやしますまい。ですから私が吾家のお師匠さんの子であるとか、姪であるとか、何か親戚のものででもあるのなら、仮にお師匠さんと論争をしても、お五十さんを与るとか、恩返しをするとか、どの道にしてもあの人の立つ瀬があるように、どうにかしてやるのですが、お師匠さんと私とは他人同士、養女になれ、養女にするって、この頃じゃ大切に優しくはしてくれても、こっちは食客です。論争うまでにゃぁなりません。また論争ったって無益なのは知れてます。ですけれどお師匠さんの代わりに行ってみて、あの人と知り合いになってから、これまでの経緯を聞いて一々知ってみると、私ぁほんとにあの人が気の毒で気の毒で、お五十さんていう人が小憎らしいくらいに思っていたところへ、これこれで職もなくなったという話を聞いてみると、ハァそうですかと言ったままにゃぁ出来ないような気もするし、何だか知らん顔で打棄っておいちゃぁ不人情のような気もするんですよ。で、姉さんが口さえ利いて下さりゃぁきっと訳はないこと、多勢の人をお使いなさる筑波さんのところで人ひとりくらい授けて下さる職のないことはあるまいからと、そう思って、それで余計なお節介か知りませんが、お願いに来たのです。本当なら吾家のお師匠さんが出来ないまでも、こういう苦労をしてみなけりゃぁならないところなので、私がするのは出過ぎてもいましょうが、お師匠さんはお師匠さんで澄まして平気でいても、私ぁ私の苦労性でじっとしちゃぁいられなくって、こうして出て来て姉さんに縋るのです。まさかこれだけ細かい理由をお話ししたら、そりゃぁお前詰まらないよ、と言ってもくださいますまいが、ネェ姉さん、私の欲得でお願いをするのじゃぁないし、姉さんだってあの人を愍然じゃないとお思いなさるようなことはありゃぁしますまいもの。お願いですから私の思いが無駄にならないようにしてくださいな、ねェ姉さん」
思い入って頼み込むお龍を優しい目をして見ていたお彤は、先刻から今に至るまで、まだ鬢の毛の一筋さえ動かさず、端然として座ったままである。
つづく




