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幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(107)

 其 百七


 ところが吾家(うち)のお師匠(しょ)さんと来た日にゃぁほんとに酷い人で、私がこれこれだという話をして聞かせても、フーンそうかェと言うばかりで気の毒とも言わずに、黙って懐手(ふところで)で、高所(たかみ)の見物をしようというんですもの、あんまりじゃぁありませんか。それも水野さんが職を()すようになったその原因(もと)が、何の関係(かかわりあい)もないことならそれで()いかも知れませんが、あの人に技量(わざ)がないというのじゃぁなし、怠惰(なまけ)たというのじゃぁなし、ただお五十さんに親切にして、信心までしたそのことが人目に立って、(はた)風評(うわさ)がやたらに喧しくなった、そのために職を退()いたというのですから、いわばこっちのためにそういう訳になったのですもの、石仏(いしぼとけ)だって気の毒と思わずにはいられそうもないところです。それをどうでしょう、全然(まるっきり)知らん顔で済まして行こうというのです! 人間もそのくらい身勝手になれりゃぁ十分だと思いますわ」

「だって悪い人ならそれくらいのことは平気でしようじゃぁないか」

「そりゃぁ言ってみれば、まぁそんなもので不思議はないでしょうがネ、ちょうど中に挟まっている私が両方を見ますとネ、つくづく吾家(うち)のお師匠(しょ)さんはあんまりだと思うし、それに連れて水野さんが愍然(かわいそう)で愍然で、ほんとに何という愍然な人だろうと身に()みて思いますわ」

「そうさネェ、まぁ愍然(かわいそう)でないこともないネェ」

「あらッ、まぁ、愍然(かわいそう)でないこともないネェだなんて、あんまりですわ。いくら自分が迷ったのだから仕方がないとはいうものの、助かるか死ぬかという病人に対して、心配もしてやる、お金も掛ける、書生さん風の人だのに信心までして、この頃の人がしそうにもない観音様に手を合わせるというようなことまでしたのは、まぁよくよくのことでなくっちゃぁ出来ませんわ。それだのに、それ程思っている人にゃぁ酷く嫌われて、そして吾家(うち)のお師匠(しょ)さんにゃぁ口頭(くちさき)だけで丸め込まれて、お腹の中じゃぁ舌を出して笑っていられて、挙げ句の果てに取るものも取れない身になってしまうなんて、そりゃぁ男児(おとこ)のことですから心も広いでしょうし、気性も毅然(しっかり)としているらしい人ですから、それ程くよくよもしないでしょうが、私がもしあの人の身だったら、まぁどんなでしょう! この先、五十さんの気が折れて優しくでもなったら済みもしましょうが、もしお五十さんはお五十さんでどこまでも剛情を張り、お師匠(しょ)さんはお師匠さんで鼻の(さき)だけで待遇(あしら)って行ったら、いくら男児(おとこ)だって迷った心の苦しさは女と(ちが)うことはありますまいもの、どんなにか泣きもしましょう、恨みもしましょう、口惜しがりもしましょう、愍然(かわいそう)にあの人はいわば清玄(せいげん)(*1)みたいなものになって、終局(しまい)にゃぁ段々と成り行きで、どんな怖ろしい(こわ)い場に行き着くかも知れません。たとえもしそうなったところで、お五十さんやお師匠(しょ)さんは、身から出た錆だから仕方がないとしても、別に何も悪いことはしていないあの(じょう)の厚い、正直で、無垢な、前途(さき)がありそうなあの人が……みすみす一人(すた)ってしまうのは愍然(かわいそう)じゃぁありませんか。ネェ、姉さん。察しのいい姉さんにそこが分からないことはありますまい。悪いこともしない人がみすみす人ひとり(すた)りそうな、それが愍然(かわいそう)でないことはありますまい、ねェ、姉さん」

 興奮してか、お龍の顔はやや紅くなり、その眼は濡れ色を帯びて(あや)しく光を増した。


 *1 清玄……歌舞伎の清玄(せいげん)桜姫物(さくらひめもの)に登場する僧。話が複雑なのでここでは詳細は省略するが、結構面白いので、興味ある方は検索してみて下さい。


つづく

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