幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(106)
其 百六
過日もちょいとお話しをしたので、諄くは言いませんが、その赤の他人のあの人とお五十さんとの間は、ただ同じ学校に奉職めているというだけのことです。そりゃぁなるほど、お五十さんを思っているからとはいうものの、何もあり余っている人じゃぁなし、学校の先生何ぞをしているくらいですもの、その懐中具合も知れていますわネ。その楽でもない人が、なけなしの中でどうにか工夫をして、お医者さんも頼んでくる、看護婦も付ける、下働きの小女まで添えて置いたというなぁ、普通大抵の親切じゃぁできません。でもまたお五十さんがあの人と思い合っていて、あの人の親切を身に沁みて悦んで心底から嬉しいとでも思うというのなら、あの人も苦しみ甲斐がありましょうが、性が合わないとでも言うのでしょうか、お師匠さんの談では嫌って嫌い抜いて、有り難いとも嬉しいとも思いそうもないというんですもの。あの人の立つ瀬はありゃぁしませんわネ。それに、ぽつりぽつりと聞く吾家のお師匠さんの口振りからすると、今度の事が起こるずっと前から、お師匠さんはあの人がお五十さんを思っているのに付け込んでネ、将来はお五十さんをあげましょうというようなことを巧く匂わせて、何とかかとか口実をこしらえては若干金かずつ搾ったみたいです。どうも後前をようく考えてみると、きっとそうなのですよ」
「ヘーエ、罪なことをしたものだネェ! お関さんという人は」
「罪ですとも、ほんとに! あんな生真面目な初心な人を欺すのですもの」
「じゃぁ、お前のお師匠さんていう人は悪い人じゃぁないか」
「えぇ、お師匠様ですけれども、まぁ、善い人たぁ言えませんネェ。で、吾家のお師匠様が万一普通に人情合いの分かる人なら、従前のことはどうでもこうでも済んだことだから仕方がないとしても、今度はいわば水野さんの世話一ツでお五十さんの生命を取り留めたのですから、床上げでも済んだその暁にゃぁ、たとえお五十さんが何と言おうとも言い含んで水野さんに嫁るようにでもしなくちゃぁならない筈だと思いますわ。ネェ姉さん、そうじゃぁありませんか。義理ってぇものがネェ」
「なるほど、お前がお五十さんのお母だったらそうもおしだろうと思われるよ」
お龍はこのお彤の答えに少なからず不満の色を現した。
「じゃぁ、姉さんがもしもお師匠さんだったら?」
「ホホホ、返事が些と気に入らなかったようだネ。私がお五十さんのお母だったらかェ、そうさねェ、私ならまぁ、先方へ恩返しをしておいてネ、……そう、世話になった恩は恩で、水野さんに恩返しをしてネ、縁談のことはそれから後で決めようと思うネ」
「そう! それならそれで、それもまた訳の分かった大変良い仕方だと私も思いますわ。ところが吾家のお師匠さんは私の言ったようにしようでもなけりゃぁ、姉さんのお言いのようにもしようとしないで、ただ病患い時やぁ人任せにしておいて、治りゃぁ自分の子っていうような勝手な考えで、いつまでも水野さんは釣りっぱなしにして打棄っておこうというんですもの。酷いじゃぁありませんか」
「そりゃぁ酷いとも。酷い人だよ。聞いてみりゃぁほんとにお前のお師匠さんていうのは悪い人だよ」
「でもまぁ、縁のことは当人同士のことなので、親の思うようにばかりもならない理もありましょう。ですから、お五十さんが嫌なら嫌で強いる訳には行かないとして、それぁそれで可いとしたところが、恩は恩ですもの。恩はどこまでも着なきゃぁなりません。まして、水野さんが困るという時節になりゃぁ、どうしても知らん顔じゃぁいられない訳で、出来ないまでも心配だけなりとしなくちゃぁなりませんわネ。
つづく




