幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(105)
其 百五
自分の胸の中で思っていたことを余すところなく説き的中られたことに、一度は先ず驚いたものの、それを詰まらないことだと、ただ一言に斥けられては、堪え性のないお龍の心は穏やかではなく、思わず顔を突と上げて、
「何故ネェ」
と詰り気味に咄嗟に言葉を返したが、見れば古風の内裏雛のように端然とした顔つきの、細いけれど長くて特にはっきりとした眼を自分の方にじっと注いだお彤の、その沈静いた態度は、その中に具わった自然の威が軽々しく慌ただしい自分を圧すように感じ、何となく抗い難い心地がして、気勢もたちまち挫け、口調も萎え萎えになって、
「詰まらないって、そりゃぁそうかも知れませんけれども、私にゃぁ些ともそうは思えませんわ。下らないかも知れませんけども、私の思ってることを、ネェ姉さんどうか一通り聞いてみてくださいな」
と、憐愍を乞うように言い足した。
人に頼みごとをする者の心の中ほど苦しいものない。強いるほどに頼まなければ願望は叶わないが、強い過ぎて怒られてしまえばそれまでとなる。願う意が切実であればあるほど、自分の言葉の加減に気を遣って、こう言って可いかのか悪いのかを心配して、人知れず何度も胸を痛めるものである。お彤は自分の愛するお龍のいじらしい心の中を、早くもその目色や語気で察して、直ぐに顔を和らげ、笑みを作りながら、
「まぁ、お龍ちゃんの思ってることってどういうことなの?」
と、言い出しやすいように路を開いてやった。
お龍はこれに勢いを得て、
「経緯をお話ししなくては何だかただ、私が余計な物好きのように聞こえますからネ、長ったらしくても最初っから言いますよ。まぁ、一番初めっから言いますとネ」
と、先ず切り出して、その後、詳しく語り続けた。
「元々あの水野っていう人は私が知っている人でも何でもありゃぁしませんがネ。今、私の世話になってるお師匠さんに養女があるのです。会ったことがないから顔は知りませんが、好い容貌だそうだし、学問もなかなか出来るそうで、教師さんをしているんです。お五十さんといって、しっかり者でネ、元っから継母とは気が合わないので全く離れていて、独り立ちしてどうにかこうにかやって行ってたのです。世話になっていながら悪く言っちゃあ済みませんがネ、お師匠様は随分我が儘でもあり、品行だって堅い方じゃぁない勝手な人ですから、真正の理屈を言やぁ端正としているお五十さんの方が正いのでしょうサ。だけれどもお師匠さんに言わせりゃぁ、変に高慢で、執拗な可厭な女だって言うんです。まぁそれぁどっちが実正だか会ってもみない人のことですから分かりませんけどもネ、そのお五十さんていうのが弟の世話まで焼いているのに、お師匠さんは何にも少しも構わないで、自分で取るものは自分で使ってお酒なんぞを飲んでるのですもの、まぁ、どうしてもお師匠様の方に軍配は上げられませんやネ。ところがそのお五十さんという人がチフスを患って、生死の分からない怖い状態になったのです。それをどうでしょう、家のお師匠様は振り向いてもみないのです。もとよりお五十さんが財産を持っているはずもなし、弟ッ児はまだまったくの小児なんですもの、困ってしまうのは分かりきっています。そこであの水野さんていう人が世話をしたのでしてネ、あの人はお師匠さんともお五十さんとも赤の他人なのです!
つづく




