幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(103)
其 百三
市中でもあるので、それほど広くはないが、わざと花物を嫌った、常磐木だけの庭、しかし、見えない所に人の手が念入りに施されていて、その證として、枝々はほど好く折り合いながら茂り、隅々は汚くない。大きくも小さくもない形状の佳い年代物の燈籠が一つあって、それがちょっと面白味のある他は、別にこれといって値の高い樹も珍しい石も無いものの、全体の調子が蟠り無くすらりと、幽閉で、特に設えた物もなく、ごたごたしていない。穏やかなところに自然飽きのこないゆかしさがあって、夏は梢に新月が低く懸かる宵など、不如帰の一声があれば嘸かしと思われ、雀が膨れる寒い冬に、雲の間から時雨がはらはらと落ちる夕べや、あるいは雪の薄綿が万物を包む暁などは、どれだけ趣があるのだろうと思われるほどである。
そんな風であれば、時折此家にも出入りする筑波のお気に入りの骨董屋の利斎と言う老漢で、内々では茶道に一家言ある小賢しい男がこの庭を見て、
「猫の額ぐらいの庭だが、あの人の住居の庭は何とも言えない。庭の出来が好いだけではない。あのこっくりとした地味な景色の中に、絵が浮いて出たように美麗な福相の美人のあの人が澄ましている対照というものは、何のことはない、茶室の壁の何もない床に、一輪の白牡丹を活けたようなもので、一際人の目を驚かす。あの人が花だから花は要らない。これを思えば、花とは見られない容姿もない女などが、自分の庭先に花を植えたりなんぞして、妙に優美がって好い気になっていても、下手に花の近傍にでも彷徨こうものなら、まるで海棠(*1)の下で狸がチンチンでもしているように見えるのが多い。茶道も知らない奴はまぁそんなものだが、あの庭が彼女の好みで出来たといえば、あのお彤さんという人は顔が美いばかりじゃぁない、何もかも解る人だ。なかなか一通りや二通りの人ではない。どおりで物品を買っても買いっぷりが可い。そして倦きッぽいあの筑波さんが何年も離れずにいる。どうも偉い。茶道を知っているから何にしても偉い」
と、自己の見る目を鼻に掛けて評したこともあった。
家の一角にある小座敷の、僅か四畳半には過ぎないが、此庭を東南に受けて、陽気だが廂を長くしているので明る過ぎず建てられた中に、今お彤とお龍は相対って座っている。薩摩杉の天井板の木理も美わしく、根岸茶の壁の色も沈着いて、床にはお彤の好みか筑波の好みかは分からないが、明人らしい書の小幅を掛け、棚にはこれは確かに主人が面白がって、と思われる絵巻などが取り繕わず載せられている。出入口、窓の取り方など、総じて茶室めいているけれど、釜を掛けるのを嫌ってか、爐は切られていない。一面に美しい敷物が敷き詰められて、一方の隅には骨董な女用の螺填の、漆光は既に脱けて佳い加減に古びた立派と言う他ない黒い小机があり、その上には同じような小さい硯箱が置かれ、机下にも同じような手匣が置かれている。この机の前は女主人がいつも座っているお定まりの場所である。
お彤はいまそれを背後にして、是眞(*2)作の蒔絵が入った桐胴の小さい手爐(*3)を横に、こちらを向いて茶を淹れている。お龍は清楚とはしながらも、自分の銘仙織づくめの衣服である身では居ることが憚れるほどのお納戸緞子の座蒲団に、少し落ち着かない様子で座っている。客といえば客ではあるが、おのずから貧富の相違に圧され気味にあるのをいかんともし難く、ただ温和しく内端に控えているが、それでも持って生まれた気性で、少しも萎げない顔つきで、自分は自分だと毫末の隔て気もなく、人を親しむ眼の中涼しく相対う様子は、喩えて言うなら、一人は晴れの日の昼に微笑む牡丹なら、もう一人は野の風がそよ吹く秋に、寒さなど知らぬ色をして咲いている木芙蓉とでも言うことができよう。
*1 海棠……バラ科リンゴ属の落葉樹。春に淡紅色の花を咲かせる。
*2 是眞……柴田是真。江戸後期から明治時代にかけての漆工、蒔絵師。
*3 手爐……手を暖める小振りの火鉢。
つづく




