幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(102)
其 百二
六畳の茶の間、茶の間とは言え、大抵の家の客室より美しい。柱から敷居、鴨居にかけての材質の佳さは言うまでもなく、格子の配置にこだわりを見せた細骨の繊巧な二間四枚の障子に張られた継目なしの紙は雪より白い。縁側の方から光線を取り、上は嫌味の無い柾の天井、下は縁無しの備後表という畳の室。その内には、体裁良く据えられた多分太田あたりの指物師に作らせたと思われる島桑の長火鉢があり、その横手に置かれた思い切り立派な支那製の紫檀の茶棚は、先ず入室った者の目を奪う。此家の女主人がいかに裕福であるかは、勧工場(*1)品で事足れりとするような沒趣味者とは違い、壁の塗り色、押し入れの襖の模様まで、すべて釣り合って、しっとりと整った中に、おのずから安っぽくなく、また侘しくもなく、飽くまでも「良いもの好き」「粗悪なもの嫌い」の趣からでもうかがえる。
「お龍ちゃん、お前、お客様らしくしないでも、もっとこっちへ寄ってお暖まりナ」
大島紬は好いものだけれど、どことなくぼやっとしてすっきりとしないのが厭で、平常着はこれに限ると、平生御召縮を着通しているお彤は、今も相変わらず、其品一辺倒の衣服で、それがまた佳く映る。絹物の座蒲団の上に居て、火鉢から南部の鉄瓶を重そうに取り下ろしながらそう言えば、
「えぇ、姉さんのところへ来てお客様らしくなんぞしませんがネ、まだ火の傍へ行きたいほど寒かぁありませんもの」
と笑いながらも、お龍は言葉に従って、少しだけ座を進めたが、確かにその顔は見るからに輝くほどに桜色で艶っぽく、いかにもこれくらいの寒さくらいは何とも思わない様子であった。
お彤は座を進めて近寄ってきたお龍の頭髪をちょっと見たが、女同士の談の糸口というのは、先ずそんなところから解れるものである。
「今日もまた束髪(*2)にしておいでだネ。この頃は何時見ても結ってはいないのネ」
「ハァ、姉さんでさえやっぱり束髪になさるじゃありませんか。まして私なんか。出かける前にいちいち人の手を借りるのが億劫なものですから、つい自分でもってぐるぐると巻いてしまうので……。似合わないで可笑しくって?」
「ナァニ、似合わないことはありゃぁしないよ。じゃぁ、今日ももうどこかへお出でだったのだネ」
「ハァ、ちょいと」
ここに来て、女主人はその美しい顔に微笑を浮かべて、
「当ててみようかね」
と戯れるように言えば、お龍は言葉も無く莞爾と微笑んで、親しげに軽く頷いた。
「きっとまた浅草へお出でだったのさ」
「いいえ」
「ナニ、いいえなことがあるものかネ。ソラソラ、口は詐をお言いでも顔は正直だよ、ハイ観音様へ参りましたと。その笑ってる眼がチャーンとそう言っているよ」
「ホホ、ホホホホ」
「ホホホホ、それご覧、当たったろう。ご精が出て真実にご奇特なことだネェ」
「あら姉さん、調戯っちゃぁ厭ですよ。あんまりですてば」
「そうさネェ。何もあの人にお会いでもなかったろうに、調戯われちゃぁ愍然だったネ」
「もうようござんすわ。沢山色んなことを仰いよ。今日も不思議に落ち合ってきましたわ」
「オヤッ。そんな訳はないじゃぁないか。今日は平常の日だし、あの人は職務があるっていう談だったもの。じゃぁやっぱり打ち合わせでもしてお置きだったの?」
「いいえ、そんなことはありゃぁしませんがネ。あの人が職務の方を辞してしまったので、それで今日は午前中に出て来たって言うんで。ひょっくりと御堂で会った訳なのですよ」
「ヘーエ、職務の方を辞したって……。あぁ解った、免職されたんだネ」
「そうなのよ、本当に免職されたのですって。それについて、姉さんに些とお願いがあって来たのですがネ」
と、やや真顔になって談話をしようとするお龍の顔つきを見て、お彤は軽くちょっと制止て、
「お待ちよ、お龍ちゃん。あっちへ行ってからゆっくりと談を聞くから」
と、奥の方を指さし、
「あら姉さん、ここで沢山だわ」
というお龍の言うのを打ち消して、
「私が茶の間に居るのが嫌いなのはお前も知っているじゃないか」
と遮ってから、下手へ向かって小間使いのお春という可愛らしい児を喚びだし、
「私の部屋の茶道具をよく清潔にしてネ、それからあっちへ持って行っておくれ。お茶は私が自分で淹れるからネ、お前はお菓子を出して、……ア、羊羹はいけない、玉簾の方を切っておいで」
と命令けた。
「さぁこっちへおいで」
と、立ち上がってお龍を奥へと引き連れる時、時計の音はちょうど三時を告げた。
男にも色々あれば、女にも色々あって、実際お彤は今さっき自分で言ったように、平生長火鉢の前に座って茶の間に居ることを悦ばず、自分の室と定めた小座敷に端然としているのが好きなのであった。であれば、これほどの好い茶の室であっても、ひと味違う感性を持つお彤にしてみれば、床の間も無い、無風流な室だと思うのであろう。
*1 勧工場……多くの商店が一つの建物の中に商品を並べて販売した、百貨店の前身のようなもの。
*2 束髪……西洋風の女性の髪形。
つづく




