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幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(101)

これまでのあらすじ


 五十子の継母であるお関の名代として水野の下宿を訪ねたお龍は、水野と会ってその人柄に好感を持つ。一方、水野を心配する日方、羽勝は水野を何とか今の状態から抜け出させようと説得する。日方は力ずくで諫めようとし、羽勝は自らの経験から海に出てみないかと誘う。そんな中、水野は勤めている学校の校長から退職を示唆される。五十子の快癒を願って浅草の観音に詣っていることで、「妄想に陥っている」という噂が立ったためだという。水野は勤めを辞すことに悔やむ気持ちはなかった。下宿に帰るとお濱が、先ほど医者の尾竹が来て五十子の病状が安定したので本復は間違いないと話したと告げる。その翌日、水野はお礼参りに浅草に出掛け、お龍と再開。あなたに会って、五十子の病気の回復を伝えたかったと話す。

 今回から、お龍の他にもう一人「おとう」なる女性が登場し、話に色を添えて行くが、この小説は既述の通り、話が大きく発展しないまま中断されてしまう。




其 百一


 (たと)えて言えば、固いものなら石もあり(たま)もある。()えているものなら、雑草もあれば百合もある。同じ人間(ひと)にしても、一生愚かしく衣食のために追いまくられ、なおその足りなさを憂い、(ひたい)の皺を深々と刻んで、(おのれ)の働きの無さは省みず、他人を恨み、世の中を(そし)り、そして甲斐なく悶えながら老境に入るものもいれば、生まれ持った心は(たけ)高く、胸の海は広くして、この難しい世の中に身を上手く置き、憂さも苦しさもするりと切り抜けて、屈託のない顔色(かおつき)で、いつも若々しく、雲より上にある月のように澄まし返って暮らすような(すぐ)れ者も居る。

 今の自分の身の上の情けなさを()じらって、(みずか)らの口からは我が友とは言いにくいけれど、お龍には何処(どこ)までも隔て心無く、自分を友とも妹とも待遇(あしら)って、親身になって優しくしてくれるお(とう)という一人の美人がいた。

 叔母が無理矢理圧制(おしつけ)た聟取り沙汰を嫌って、駿府を抜け出て東京に出て来た時、お龍が()ず頼ったのがこの(ひと)で、お龍と一緒に浅草に遊んだ日、水野に()い、水野にその美しさで驚かせたのもこの(ひと)であった。

 お彤の身分はと言えば、世に聞こえた、その人一代で身代(しんだい)を築き上げた金持ちである筑波(つくば)何某(なにがし)という六十男の(めかけ)に過ぎない。そう、薬研堀(やげんぼり)付近(あたり)数寄(すき)を凝らせた家を構えて、賑やかな中に静閑(しずか)に暮らすほどの贅沢を(ほしいまま)にし、綺麗な着物を(まと)い、美味しい物を口にし、すべて幸福(しあわせ)に世を送るとは言え、実際の身分はと言えば外妾(めかけ)に過ぎないのである。

 しかし、お彤は人の正妻(つま)ではないからと言って、身を日陰者に(おとし)めてはいない。今を去ること七年ほど前のことである。筑波がその正妻(つま)()くした時、顔の美しさだけに迷い溺れるような愚かしいこともない筑波は、よくよく見定めたところがあったのだろう、お彤を妾から引き上げて正妻(つま)にしようと言ったのである。であれば、その時お彤が強いて断らなければ、今はこの世の表面(おもて)に立って、立派に筑波夫人と(あが)(あお)がれ、夫の勢力が及ぶ範囲では反り身になって誇り高く生活(くら)すことが出来たはずであったが、それを自分から(さえぎ)(とど)めて、今もなお外妾(めかけ)の生活を送っているのであった。

 筑波が引き上げて正妻(つま)にしようと言った時、お彤はどういった気持ちでこれを辞退したのか知る(よし)もない。しかし洩れ聞いたところによると、お彤はひたすら(つつし)(つつし)んで、

「私を引き上げてくださろうというお気持ちは嬉しゅうございますが、私は実家(さと)も無く、後ろ盾も無い身ですから、そう仰ってくださるから好いわ、で成り上がりましたら、人の(そし)(あざけ)りはどのようでございましょう。それも私が悪く言われるだけで済めば()うございますが、針ほどのことでも棒のように言いたがる人の口ですもの、何ぞの折には私のことを言い出して、あんなものを引き上げたのは何事だと、きっと貴下(あなた)を悪く言わずにはおりません。たとえ人が何を言ったって気になさるような弱い貴下(あなた)ではなくっても、私のせいで貴下(あなた)金箔(はく)剥脱(おと)すのは私は嫌です。どうせ今まで日陰者で済ましてきた私ですもの、いっそ一生日陰者で済まして(しま)って、人に目角(めかど)を立てられずに生活(くら)した方が(しょう)に合いそうです。貴下(あなた)さえ見棄ててくださらなければ、自分が出世して貴下(あなた)を悪く言わせるような気はございません」

 と、大層真面目に道理正しく断っただけではなく、また、打ち解けて笑う酔いの後などでは、面と(むか)って遠慮もなく直接(ぶしつけ)に、

正妻(おくさま)になりゃぁ正妻(おくさま)だけの荷を背負わなけりゃぁなりませんからネ。力の無い私がそんなことして肩を()らすよりゃぁ、気楽にこうしている方がマァ()さそうですから」

 と言って承知せず、乗れば乗れた玉の輿(こし)を自分から棄てて(おし)まなかったので、結局、(なにがし)子爵の姫君が筑波の妻として今の栄華を受けることとなったのである。

 であれば、筑波はお彤を日陰者として世には隠しているが、彼女を愛し重んじるのは今の正妻(つま)以上のものがあった。

 お彤はこういう風にして、この世にただ一人、筑波の(こころ)を失わないようにする(ほか)は、何にも気遣うことも無く年の(はじめ)から年の(おわり)まで、身の周りの物から庭の隅の草木まで、一切を栄華の頂上に居るようにして、やりたい三昧に振る舞い、誰に苦情を言われることもなく日を過ごしているのである。


★ お(とう)のイメージについて


 余談であるが、ここで、少しだけ「お彤」について書いておこう。

 今年(2022年)6月、私は京都国立近代美術館へ鏑木清方展を観に行った。

 鏑木清方は美人画として、西の上村松園と並び評される画家である。その没後50年を記念しての開催であった。

 鏑木清方と聞いて、私は作品としては鏡花の挿絵くらいの小さなものが多いと思っていたのだが、何がなにが、吃驚するような大きな屏風とかもあったりして、大がかりな作品も結構多かった。当時の風俗を描いたものは、まったく知らないくせに、何故か懐かしいものを観た気にもなった。


 その中でもとびきり目を惹いたのは「築地明石町」である。長らく行方不明になっていたらしいが、平成30年(2018年)にその存在が明らかになり、同時に発見された「浜町河岸」「新富町」と合わせて三部作が展示されていた。

 その美しさに、私はこの作品の前でぴたりと足が留まってしまった。


 前置きが長くなり過ぎた。

 なぜこんなことを書いたかというと、この「天うつ浪」に登場する「お彤」について、塩谷 賛氏の興味深い文章を読んだからである。

 この「築地明石町」のモデルは清方の妻、照の同窓生であった農商務省官僚「江木定男」の妻の江木ませ子であると言われているが、塩谷氏曰く、


『鏑木清方一代の名作「築地明石町」はモデルをつかったのだが、絵師の脳裡にあったものはこのお彤である。どうしてそんなことを言うかといえば、作品を味わってお彤の顔や姿を想像するにはこの画をあてはめればいいからである』(中央公論社「幸田露伴 上」 P.435)


『絵師の脳裡にあったものはこのお彤である』と塩谷氏は言い切る。

 なるほど、私も「お彤」が登場するこの「其 百一」以降の文章を読んで、あらためて鏑木清方の「築地明石町」の女性を見れば、確かにイメージがピッタリ重なるのである。

 興味ある読者は是非検索して見ていただきたいと思う。 


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