幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(99)
其 九十九
ずっと御堂の内で若い女と立ち話をしているのを参詣の人たちに見られるのが嫌で、水野は談の切れ目に本尊の方へ一拝し、漸くその場を立ち去ろうとした。お龍はそう間を隔てず、水野と連れ立っては来るが、その歩みは遅く、そのため却って水野の足を留めがちにした。
御堂の階段を降りきり、二人は色んな人たちが行き交う長い石畳の路を辿った。ここはどこもかしこも賑やかで、木履の響き、雪駄の摺り音、人の声と物音が一つになって、ただがやがやと訳もなく騒がしく、斜子織りの袖が縮緬の袂と擦れ違い、男児の被る海軍帽が矢の字結びの帯に触れ、あちらの旦那様、こちらの奥様、女の児も男の児も目まぐるしく往来すれば、もう自分は他人を見ることもなく、他人もまた自分を見ることもなく、他人の談も耳に入らず、自分の談もまた他人には聞こえない。お龍はそんな中を連れ立って歩きながら、ややもすれば独りで先に行こうとする水野を追いかけるようにして、
「アノ、今日はお休みの日じゃぁございますまいのにネェ。わざわざお休みなすってお礼参りにいらしった訳なの?」
と、もしそうであれば、余りにもあの人のことを思う気持ちが強くて、何もかも忘れ果て、このような過ぎたことまでするのでは、というように、いささか笑いを含んで問いかけた。
先刻も受けた問いではあるが、答えるのも面倒だと思って返答しなかったが、今またこのように訊かれては黙っていることも出来ず、
「ハハハ、まさかそういう訳でもないのですが、ちょうど職務を辞めてしまったので、それで万一したらまた貴卿にお目にかかれるかなという頭もあって、平日より早く出て来たのです。運良く巧くお目にかかることが出来て、聞いていただこうと思っていたことも聞いていただいたので、すっかり目的を果たしましたが、これも下らない職務なんか廃してしまったお蔭でしょう。ハハハ」
と軽く打ち笑った。
水野は軽く笑い済ませたけれども、職務を棄てたということが、お龍にはそんな軽いことだとは思えなかったとみえて、その眉を顰めて心配気に、
「お職務をお止しなすったのですって? 何故そんなことをなすったの? 何もお困りなさるようなことはお有んなさりゃぁしますまいけれどもネェ、何だってそんなことをなさいましたの。そんなことをなさらなくてもじゃぁありませんか」
と心から同情して、私かにこれからの生活をどうするのかと気遣うような言い方である。
「ナニ、別に無理に辞めたいと思ったのでもないのですけれども、辞めされられてみれば仕方がない訳ですもの」
「だって、なぜネェ! お勤めをお怠けでもなすったの?」
「イイヤ、私はそんなことは決してしません」
「じゃぁそんなことになる訳がないじゃぁありませんか。もしそれじゃぁ、万一したら五十子のことで噂でも立って、そのためというような訳じゃぁなくって?」
「ハハハ、言ってみればそんなところでしょうが、そんなことはどうでも構いやしません。まさか下らない職務を止したからといって困りもしませんから、いっそ卑小な職務なんかに縛られない今日の方が宜い気持ちがします」
「そりゃぁそうでもお有りんなさいましょうが、でもまぁ差し当たって……。ほんとうなら五十子さんのお母さんがどうにかしてあげるのが道なんでしょうけれども」
何を思っているのか、お龍は言い淀んで考えに沈んだが、水野は却って冴々として、
「ハハハ、決して何も心配して下さらんでも可いのです。考えがあるのですから。信心をして愚かだと言われて、厄介払いされてしまったこんな馬鹿でも、男はやっぱり男ですからネ。イヤここで失敬しましょう。さようなら」
と、書生風にあっさりと挨拶をして別れ去ろうとする。もう何時の間にか石路は既に歩み尽くしていた。
何にか心を奪られていたお龍は、水野の告別の辞に打ち慌てて、
「じゃぁ明日またお目にかかれますの?」
と、辛うじて一言問えば、既に十歩余りほど隔たっていた水野は無言で頷き、情無い風にしてそのまま終に東の方へと行ってしまった。
去って行きながら、百歩ほどして、水野は徐に首を返してみれば、人の多く、車の夥しく行き交う中に、なお悠然と立って、水野の方を見送っている、お龍の顔が花のような白さで仄かに見えた。
次回でとりあえず一つの区切りとなる100回目です。




