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幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(72)

 其 七十二


 そんなところへ新たに茶を入れて持って来たお濱は、くっきりと美しい眼で優しくお龍を見て、しとやかにその茶碗を手に取って薦めれば、お龍は水野を見ていた目をお濱に移して、今まで鬱蒼(うっそう)とした常緑木(ときわぎ)が高く(そび)えたような水野を見た目には、たちまちしおらしく咲く初桜の、ぱっと明るい花の枝を見た心持ちがして、自然と気持ちも解けたようになり、

「どうも恐縮です、恐れ入ります」

 と、身を謙退(へりくだ)して会釈(えしゃく)しながら、互いに顔を見合わせたが、笑うともなく嫣然(にこり)とした二人、一時の笑容(えみ)の中に、語らずに語り、聞かずに聞くという心と心が働いて、思えば思い、()けば()(しょう)の合う同士、女同士、何故かは分からないが相懐(あいなつ)かしみ、相悦(あいよろこ)び合った。

 しかし、お濱は何時までもここには居られず、お龍と話でもして遊びたいような思いを持ちながらも、もう一つの茶碗を水野に与え、適当なところへ茶具を置いて、自分は茶の間に退き、二人の話に耳を傾けた。

 お龍はなおも五十子の容態を聞かないではいられない。

「ほんとうに色々とお気に掛けて戴き、まことに有り難う存じます。帰ってお言葉通りにそう申しましたら、どんなにか師匠も悦ぶことでございましょう。そういたしますと、ただ今病人はどんな様子でございますの?」

「いや、それがどうもそんなに良くはないのです。それで大層心配いたしましたが、浅草の医者を()びに行きました帰路(かえり)に、たった今此村(ここ)の医者に容態を聞きましたら、大分病状が見直したような具合でして、重病だから何とも言えないが、このままで日さえ()ってくれればまぁ(よい)いと言うので……」

「では食事などは?」

「なかなかまだ食事などと言う段階ではないので、やっと流動物が少量(すこし)ばかり入るくらいです。しかし変わりさえなければ、大抵は経過日数が(きま)っているものだそうですから」

「心配するようなことは、まぁ、ないのでございますか」

「そうとばかりにもいきますまいが」

「変わりのないようにすることはできないものでございましょうか」

「そりゃぁ、そうしたいのは山々ですが、情けないことに、医者の力でもそこまではどうにもなりません」

「それじゃぁ、神様にでもお願い申すよりほかには?」

「そうです。とてもまぁ、そんなことよりほかには!」

 男の声はここに至ってひどく沈んだ。お龍は突然思い浮かんだことがあった。自分が(むか)っているこの人は誰だ、この人はそう、あの普門品(ふもんぼん)の持ち主ではないか、何をか(ひと)りでもの思いをして、睫毛に露を(たた)えた人ではないのか、あぁ、恋故の信心ではないようにと、他人(よそ)ながら念じていたその人ではないのか。汽車の中での素振り、先刻(さっき)からの応対、今のこの様子で、一切(すべて)解った。師匠は碌に自分に話さなかったが、この人はこの五十子というのに深く思いを懸けて恋をしているのだ。似つかわしくない仏頼みをしていることで、その胸の(うち)の苦しみがよく分かる! あぁ、一昨年(おととし)の自分をこの男子(おとこ)の中に見る。その顔の(うれ)いに痩せて情けない様子! その眼の恋に疲れ切って、(なご)やかなところの何と乏しいこと! 血筋や身寄りはあっても、真実(ほんとう)に恋に悩む時は、いつか孤独(ひとり)の身になり果てて、誰一人味方になって泣いてくれるものがいないのが世の習い! あぁ憫然(かわいそう)憫然(かわいそう)な人! と、経験(おぼえ)のある身は思いやりも深く、

「あぁ真実(ほんと)にさようでございます! 神様仏様よりほかにはそういう時にはお頼み申すところもございません。帰路(かえり)には浅草の観音様で、私もお百度でも踏みまして、どうか()くおなんなさるように願いましょう」

 と言われて、水野も心嬉しく、

「そりゃぁご親切に、有難い。どうか病人が()くなるよう祈って下さい」

 と、まったく平凡(ただ)な人のような返事を返せば、

「アラ、どうしたのだろう? 先生が! 観音様なんかに祈ってくれなんて! ホホホ、古ぼけた老婆(おばあさん)かなんかみたい」

 と何も知らないお濱はこれを蔭から聞いて、聞こえない程度に独言(ひとりごと)を言って笑った。

 命令(いいつけ)られたことは大方済み、ここでお龍は初めて言葉を出す(ひま)を得たので、

「つい申しそびれておりましたが、先刻(さきほど)はどうもとんだ過失(そそう)をいたしました。こちらへ伺ってお目にかかると、貴下(あなた)がその方だったので、また吃驚(びっくり)いたしましたのでございます。お怪我をさせまして真に済みません、どうかご免なさって下さいまし」

 と、改めて謝罪(わび)れば、水野は顔を歪めるようにして、

「ナァニ、貴女(あなた)に踏まれて流れたあんな紅い水、少許(ちっと)若干量(そっと)流れたって何が何でもありません! ハハハハハハ」

 と、裏枯れした声で、自らを(あざけ)るように淋しく笑った。その気持ちは知るよしもないけれど、その言葉の意味と話す調子の(ギャップ)に、余計に悲哀(かなしみ)(うかが)え、感じやすいお龍は一種の感に打たれて、急には返答の言葉も出せなかった。


つづく

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