幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(98)
其 九十八
「昨日はいろいろご厄介に」
「いいえ、却ってご迷惑でございましたでしょう。おとうさん(*1)があんな気性の人だもんですから、ご遠慮のないことばかりいたすようになりまして、さぞかしお蔑みなすったことだろうと、後になって二人でそう申しておりました」
「イヤ、どうしてそんなことを思うものですか。ただ私は何の因縁もない方にお世話を掛けたのが済まないような気がします。お会いなすったらあの方に宜しく仰ってくださいまし」
「ホホ、また大層堅苦しいことを仰いますこと。あの人はああした人なのですもの、お気に掛けなさることはありゃぁしません。それはまぁどうでもいいとしまして、今日は何でもない日でございますのに、どうして今頃おいでになりましたの? 貴下の拝んでいらっしゃったお後ろ姿を見まして、私は初めは見間違いかと思いましたよ。だって貴下が今頃おいでなさるなんてことはきっとないと思っていたのですもの」
「ハハハ、私はまた何時の間にか私の傍に貴嬢が来ておられたのに吃驚しました」
「ホホホ、貴下が一心になって拝んでいらっしゃったから、吃驚なさらないようにと思って、そーっと私も拝んでおりましたのに」
「それはともかくも、今日もし貴嬢にお目にかかれたら、先ず第一にお話しをして、悦んでいただきたいと思っておりました。お陰様で病人もどうやら持ち直して、医者が必ず本復すると保証ってくれるようなところまでに漕ぎつけました。もう心配はなさそうになりました。ご心配くださった甲斐もあって、ご親切が届いたというものでございます。ほんとに病人とはご縁も薄い貴卿が、こうして毎日々々足を運んでくださって、ご祈願をかけてくださったお芳情には感謝しております。病人が快くなりましたことにつけてもありがたく、今といって今はどうお礼をしようもありませんが、何ぞの折にはきっと貴卿のために、貴卿の優しいお芳情に対して、それだけの御返礼をしようと思っております。貴卿のお芳情は長く忘れません」
このことを言おうと思う気持ちが充ち満ちて、言葉も自然と勢いが籠もり、口先だけの挨拶でないのは、確乎とした眼つきにも現れていた。水野からそんな風に生真面目に言われたけれど、お龍は何だかその言葉を素直に受け取ってはいけないような気がして、私かにどこかゆらゆらとした心地がしたのか、それともまた、他人には分からない思いが別にあったのか、自分が祈願した甲斐があったのを悦ぶともなく、礼を言われたのを嬉しいと思うようにも見えず、却って物羞じしたような沈着かない様子になって、時々は見なくてもいい遠方の額などにちらちらとその美しい眼を辷らせて聞いていたが、
「まぁ真実にそりゃぁ何よりのことで、こんな嬉しいことはもうございません。どんなにか貴下もお嬉しいことでございましょう! 貴下のお胸の中を思ってみますと、私も何だか嬉し涙が出そうになります。何も私なんぞがお願い申したからという訳ではございますまいが、あれほどに一心になってお願いなすった貴下のご念力だけでも、仏様が打棄ってはお置きなされなくって、それで五十子さんが快くおなりなのでございましょう。ほんとに五十子さんはお羨ましい。。お不幸のようで、お幸福な方です。神様仏様のお憐愍さえかかっている方ですもの!」
と最後の方は誰に言うともなく言ったが、はしたないと思ってか、調子を変えて、
「帰りましたら早速師匠にもそう申しまして、真心を籠めてお祈りなされた甲斐があったことを聞かせまして、悦ばせましょう。定めしきっとありがたがることでございましょう」
と言葉を添えた。
*1 おとうさん……ここではひらがな表記になっているが、「父」の意味ではなく、「其 九十二」で『驚くべき美人』と表現され、「其 百一」から登場する『お彤』という女性の名である。
つづく




