幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(97)
其 九十七
罪もない無邪気なお濱のこのような願いとは違って、水野が今朝、差し当たって考えているのは、先ず浅草の御堂に詣って、心静かにお礼参りをし、なおかつこれから先のことも頼み奉ろうということであった。しかし、浅草に詣ろうと思う気持ちの側には、強いて求めるというほどではないが、もしも機会よく、自分が御堂に詣ってから帰るまでの間に、あの同情深く信心深い、優しく懐かしい不幸せな人に、出来ることなら逢うことができて、一言二言、言葉を交わしたいような気持ちも潜んでいるのであった。昨日の談話では、その人が詣でるのは、毎日大抵午前のことで、午後に詣でたのは昨日だけだったと知ったので、職分に縛られる身の午前では自由が利かず、その人と再び行き会う事もなかったのを心残りに思っていたが、昨日とは違う我が身であれば、今は何時参るのも心の自由。先ずその人が詣るという午前に詣って、運良くもし逢うことができたなら、我が五十子の病気が間違いなく本復することを知らせ、御仏の加護を悦び、その人の親切にも謝意を示そうと思い潜めていた。優しく懐かしいその人に、我が五十子が非常に危ういところを免れて、復び現世の日に照らされることになったことを、人を吸い入れるようなその愛情深い笑顔に悦び欣んでもらいたい気持ちが潜んでいた。
水野はお濱のその場の語には耳を貸すこともなく、やがて浅草に向かって出て行った。
何度か往来して馴れた路では眼に映る景色はもう古いものでしかなくなり、心を留めることもなく、早くも御堂に到り着いた。先ず常例の通り祈念を籠めて、少しの間は何事も思わなかったが、念じ終わって閉じた眼を開き、下げた頭を上げ、身を起こして自分の居る四辺を見れば、夢の裏に現れた人のように、足音もなく衣擦れの音も立てず、ふっと自分の前に湧き出て、何時から分からないけれど自分の傍に跪いて御仏を念じる人がいた。
その柔らかに合わせた掌の白々と殊勝気な、その領がすらりとして美しい、その髪の見事な、その肩つきのいかにも女らしく優しい、その横顔のよく見えないながらも桜色に麗しいのは、あぁ、私が逢いたいと希っていたその人ではないか。確かに昨日見た、そして今朝は思いを巡らせていたそのお龍ではないか。御仏を念じていた今しばらくの間だけは忘れていたが、その優しく懐かしい親切の人ではないか。私が涙を濺いで聞いた不幸福な物語を背負った悲しい運命の婦人ではないか。その掌を合わせて念じる様子の哀れ深く、首を垂れて思いを凝らせる様子は何と人の心を動かすことか。不思議にも何時の間にか此堂に詣り合わせたものだ! と思う時、漸く念じ終わってか、身じろぎして静かに女は立ち上がった。
「…………」
「…………」
声こそないが、そこには呼ぶ声があった、応える声があった。言はないけれどもそこには語られる言があった、それに酬いる言があった。
つづく




