幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(96)
其 九十六
お濱は可笑しさに、笑いたくなるのを耐えながら、
「マァ、こんなに遅く起きておいて、そうして変に沈着いていらっしゃるのネ。先生、今日は日曜じゃぁありませんよ。早速となさらないともう遅れますよ。あの方が快いもんで、安心してしまってそれで全然気が弛んでおしまいになすったの? あんまりだわ! おかしくってよ」
と戯れるように言っていたが、終に堪えかねて、
「ホホ、ホホホホ」
と笑い出した。
夢の名残を洗うような朝茶の淡い味わいを楽しみ、悠然として湯呑みを手にしていた水野はこの笑いに驚きながら、実際、自分の心の中は昨日と今日とでは大きく異っていてゆったりとしており、表に現れるこの身の様子も、他人には可笑しいほど変わって見えているのだろう。特に掌上にちょっと乗るくらいの微少な給料に繋がれても、職分と思えば其職を疎略にするような気持ちもなく、身体の疲れ切った時にも、また気合いがどうしも入らない折にも、強いて勉めて果たすべきだけのことを果たした、その苦しさを今は免れて、起きるも睡るも自分次第で、肩には荷も無い状態となったのを、お濱はまだ知らない。怪しむのも無理はないと微笑まれ、
「ハハハ、何も可笑しいこともありはしないよ。今日はもう学校へも何処へも出やぁしないのだもの。いくら沈着いていても可笑しいことぁありゃしない」
と軽く答えた。
「じゃぁ、今日は怠けてお休みなさるの? 嫌な先生ネェ! 何故お休みなさるの?」
「なぁに怠けて休む訳じゃぁないが、今日っからは私にゃぁ毎日が日曜なのだ。だからもう先生先生って言うのも止してもらわなくちゃぁ。仕方が無いから今まではそう呼ばれていたけれども、先生先生って言われるなぁ、元々私ぁ好きじゃなかったのだからネ」
「あら、それじゃぁ学校をもうお止しなすったの?」
「あぁ。高田さんが止したらいいだろうと言うから止してしまうことにした」
「何故高田さんがそんなことを言い出したの。憎らしい高田さんだことネェ、何故先生にお止しなさいって言ったの?」
そう問われては流石に勇んで答えることも出来ず、水野はただ黙って笑うだけで何も言わなかった。
「昨夜高田さんのところへいらしったのはそのことだったの?」
「あぁ」
「ほんとに可厭な高田さんだこと! 可いわ、祖父にそう言って叱らせてやるわ。そうして復先生を元の通りにするようにさせるわ」
「ハハハ。折角ちょうど止めてしまったものを、そんな世話を焼かれちゃぁ却って困るよ。打棄って置いてくれなくちゃぁ」
「だって、それじゃぁ先生は、何処か他所へ行っておしまいなさるんでしょう。こんな詰まらない村にゃぁ居てくださらないでしょう。きっと私の家を出て行っておしまいなさるんでしょう」
そう言って、水野の顔を凝然と見ていたが、
「嫌だわ、嫌だわ、私嫌だわ! 祖父にそう言って高田さんを叱らせるから宜いわ」
と眼に涙を浮かべながら腹立たしげに悶えた。
「ハハハ。祖父がいくら幅利きでも高田さんは高田さんだから、そう自由が利くわけのものでもない。また、私は今何処へ行くと言うこともありゃしないから、やっぱりいつまでも此村に居るつもりだよ」
「真実? 真実? やっぱりいつまでも此家にいらっしゃるの?」
「あぁ。別に何処へ行こうという考えもないから」
「嬉しい! それじゃぁ学校へも行かないでずっと此家にいらっしゃる! あぁ、そんなら先生は学校なんか止しちまった方が宜いわ。沢山先生が此家にいらっしゃるのだから。今後また前みたいに種々面白いお話しをしていただけるわネ」
人の胸の中は更に知らず、あくまで我が儘な処女気の長閑さに、水野は笑って頷かざるを得なかった。「これでもう、浅草へも行らっしゃらないと、真実に好いのだけれども」
なおも不足気にそう言って嫣然と微笑む顔付きは、この上もなく美しい。
つづく




