幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(95)
其 九十五
相良にも尾竹にも恢復の望みは無いとまでは言われなかったものの、十に六、七までは危ないと思われたのは、変状さえなければと、変状さえなければ、と逃げ道のある保証の仕方をされたからであった。その重い病に悩む人が、今は必ず癒るだろうというのは真実なのだろうか。後になって醒めて、口惜しい夢の中の果敢ない悦びだった、とならないだろうか。あぁ、しかし夢ではない。確かに現実である。虚妄ではない、確かに真実である。かつては人の運命の頼りなさを悲しみ、訴える術もない我が思いが、空しく流水に描く文字となって消えて行くのかと嘆きもしたが、今は天地の間に愛情もあり、道義もあって、神明仏陀の慈しみ、あわれむ眦は人間の上を離れず、愛護の御手はすべての人間の手を取って放さずにいて下さるのだと思い起こしている。愚かしいまでの一念を誠を籠めて、他人には言えない心中の秘事として、あぁ、あの人の生命が無くなるとなれば、この生命を殺ぎ縮めても助けたまえと、道理もない願いを掛け奉ることが、いかに愚かの上にも愚かであると分かってはいても、分かりながらもなお止められない胸の苦しさ。それを神明仏陀はやはりお見通しになっておられた。憫然とお思いになってこの心をお納め下さいと祈ったが、あの人の寿命が本来持っていたのか、この自分の生命があの人の生命を補ったのかは分からないが、大旱に萎れた苗木が一夜の露に蘇って、田面を渡る暁風に、猶も弱々と戦ぎながらも、早くも行く末の頼もしい栄が見えるその色が青々と勢いのいいように、危うくも心細かった病の峠を越え、完全に復現世の光に美しく照られるようになったあの人の運のめでたさ、我が心の嬉しさ。思えば神明も仏陀も確かにいらっしゃる世なのだ。人間を包み込む運命は雲や霧で冥く先が見通せないけれども、その中にも神明の御心も仏陀の御心も動き働いて、人間が抱く心からの願いに酬おうとされている気がする。仄冥い中には霊的な力が宿っており、神仏の意を受け、吉ことが起こるのも凶ことが起こるのも、皆その力よるものだと思われる。神明も仏陀もすぐ近くにおられ、我々の一念の微かな動きを洩らさずお分かりになっていると思われる。あぁ、神明も仏陀も我が心の誠をご覧下さい。邪無く、汚れ無く、偽り無く人を思い、これから自分自身がどうなるのか行き着く先を見たいと思う。実際、地を掘れば水に逢い、壁を穿てば光に逢い、人の心の奥に入れば必ず神明仏陀に逢い奉るものと言うのももっともなことである。自分は今幸せにも眼のあたりにご利益を得、仄冥い中にいらっしゃって、この果敢ない自分を愛しんでくださる大慈大悲の御心の忝さを感じて、この嬉しさ有り難さは肺腑に浸み徹っている。出来ることならこの心を失わずに頼み奉るようにいたしますので、更にこの先あの人の上に多くの幸福をもたらしてくださいますように。自分の幸福を祈り求めれば、結局あの人にとって好いようになればと思うこの気持ち、この虚偽の無い真実をお汲み取りください、と水野は黙念した。
その夜水野は何を思い続けていたのか、夜が更けるまで終に睡ることが出来ず、二番鶏が鳴く頃、ようやく睡りに落ちた。ただ、思う人の病が快方に向くのを悦んで、自分が職を失うことなどは悔やみもしなかった。
つづく




