幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(94)
其 九十四
自分の職業を卑しむ気持ちはまったくないが、元々一生を其任に委ねようという気もなかったので、水野が難色を示すこともなく辞職しましょうと言えば、高田は自分の気持ちが分かってもらえたと胸を撫でおろしたものの、却って、対手が余りに未練気もなくそう言うのが薄気味悪く、また気がかりらしく小さな眼を瞬いて、水野を見た。
「しかし水野さん、決してご不快にお思いなすってはいけません。どうか感情を害して下さらんように願います。小生はどこまでも貴下を信じておるのですから、貴下に学校から離れていただきたい気持ちは更にないのでして、長く貴下と円満な御交際を継続いで参りたいのです。貴下は失礼ながら学力はおありなさるし、これからも長く小学校の教師などをしていらっしゃるようなお人ではないのです。が、差し当たって校を離れて戴いてはお困りでもございましょうから、小生は小生の貴下に対する真情を表して、貴下を他所の学校へご斡旋いたしましょうと考えております。どうか小生の貴下に対する敬意をお汲み取りくだすっていただきたいもので」
と、これもまた三十匁の茶を入れるのに湯を冷ましてから後に注ぐようにゆっくりと丁寧に言えば、水野は他に憎まれないよう、恨まれないようにしようとする心遣いが、はっきりと見えるこの白髪交じりの教育家を、憫然に思うような情も起こって、
「はい、ありがとうございます。ご厚情はまとこにありがたく存じます。お言葉に甘えましていずれかへご斡旋を願わなくってはならんのですが、しかし小生はどうも教鞭を執るには適していないように思いますから、差し当たって他所の校へ参りたいとも存じませんです。ご厚意はどこまでもありがたく存じますけれども、当分は遊んでみたいと思っております。それでは、辞表は明日早速差し出しますので、何分よろしくお計らいをお願いいたします」
と、あくまで控えめに振る舞って柔和に応えた。
水野が顔に恨んだ様子も見せず、平常のような何気ない言葉の調子で職を辞すると言うのを聞き、高田はようやく荷を下ろした気持ちになってか、
「ヤ、それでは当分お遊びなさるのもようございましょう。早くから小生は貴下を見て、蛟龍(*1)はいつまでも池の中に居るものではないと、申しておりましたのです。ハハハ。どうか今後何分お見捨てなくご交際を願います」
と可笑しくもないところに磊落めかして妙に笑って、最後には改めて肱を張って、仰々しく頭を下げて一礼すれば、水野もしょうがなく礼を返して、
「いや今後のご交際は小生の方からお願いすべきで。では、今日はこれで失礼いたします」
と慇懃に挨拶をして帰った。
取るに足りない職と些細な俸給など、これを得るも失うも一喜一憂するにも値せずと、水野はそのことを繰り返しても思わず、ただ猶も微かに残っている酔いを吹く風の薄寒さに覚えながら帰り着けば、お濱は待ちかねていたように飛んで出て、茶の間に迎え入れるや否や、満面に笑みを輝かしながら、他人には何を言う間も与えずして、
「今先生と入れ違いにネ、あの尾竹が変に威張ってやって来ましてネ。とうとうこっちのものにした。もう大丈夫だ、もう必ず保証います、もうようございます。もう、これからは快癒るだけです。五十子さんは必ず本復するという見込みが立ちました。水野さんに十分悦んでもらわなくちゃぁ、と言って今迄饒舌って行きましたよ。嬉しいわネェ先生。私嬉しくって! ほんとに私嬉しくって嬉しくって!」
と急きに急いて、喜悦の知らせを伝えた。
お濱は自分のこの言葉を聞けば、同じように水野がどれほど悦んで微笑むだろうと思いながら、心楽しみにして水野の顔を差し覗けば、悦び極まってか、本人は微笑まず、目の前に神仏をも拝むように、謹みに慎む中にも和しさが見える表情になって、そもそも何を見つめているのか、頭を斜めにして、何もない空中を凝然と仰いでいたが、見る見る内に動かないその眼の中から、止めどもなく涙が溢れた。悦びの涙とはこういうことを言うのに違いない。
*1 蛟龍……龍の幼生。水中に潜み、雲や雨に乗じて天に昇る龍となると言われる。古代中国の想像上の生き物。時運にめぐり会わないで実力を発揮し得ないでいる英雄や豪傑をたとえていう。
つづく
 




