幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(93)
其 九十三
考えようとしないに考えてしまうのは、そのことが心に染みているからであろう。しかし、吉右衛門に話し掛けられて、水野はハッと覚めたかのように、
「悪く思うなどという考えがどうして私に……。羽勝だって日方だって、皆私の兄同様ですから! 何を言われたって悪く取ったり気にしたりするようなことはありはしません。私は今ただ恍惚としていただけです。いや、今日は大変お世話になりました。お蔭で一同悦んで帰りましたが、あれを残らずご厄介になる理由はありませんから、せめてお酒の分だけでも私に出させて下さい」
と言い掛けたのを主人は嬉しそうな顔もしないで、
「また水野さんの他人行儀がはじまった。几帳面すぎて嫌気がさします。いいじゃありませんか些細なことですもの」
と打ち消しながら、
「それはそうと、先刻老夫が高田さんに会いましたら、水野さんにちょっと来てもらいたいことがあるからそう言ってくれ、他人のいない時に会いたいからなるべくなら今夜あたり、というお談でございました。ご酒気は大分おあんなさるけれども、貴下のことですからようございましょう。更けない中に、ちょっと行っていらっしゃいませんか」
と言い出した。
高田は自分が勤めている学校の長であり、吉右衛門とも心易い男なので水野はそれ程考えるまでもなく、
「何だかさっぱり分からないけれども、そんならちょっと行って来ましょう」
と答え、吉右衛門がお濱を呼び立てて、提灯をと言うのを、それには及びませんと制め、ただわずかに帯を締め直しただけで出かけて行った。
高田の家は学校の直ぐ後面にあって、農家のような造りではないけれど、趣味もない平々凡々の住居である。主人もその家に相応しい平々凡々の、何の変哲もない五十男で、農夫ではないものの、面白味のない気の小さな謹直三昧の人である。
半白髪の髪の毛は割合多いけれど、光沢なく、黄色に痩せ切った顔の、口の傍の筋や額の皺などは目立って深く、光のない小さな眼、骨張って高い鼻、落ち着きのない起居動作、活気のない物の言いようなど、すべてが乾燥びた状態で、いかにもこの人が『人の子を方向違いにでも導くような強い人』ではなく、『決して人の子を害うことをしない古い教育家』であることを現している。
高田は今、水野が訪れて来たことにも、一昨日も昨日も会った同士なのに、三年も四年も間を空けて顔を合わせたような感じで、慇懃に時候の挨拶などとくどくどして、どこにでもあるような三十匁ほどの廉価茶を大袈裟に湯冷ましなどして淹れ、隠れ蓑、隠れ笠、打ち出の小槌などの宝尽くしを描いた水金(*1)のキラキラと光り輝く菓子鉢に、三月も前から盛られたままかと思われるような最中の、月が淋しげに干縮っているのを、
「どうぞ詰まらんものですがお摘まみなすって」
と、丁寧に薦める。しかし、何時になったら用事を言い出すのか、その気配もなく、面白くもない世間の噂、他所のことばかり、熱もなく、気魄もなく、温和に冷静に話すだけであった。
水野も初めは謹んで聞いていたが、終に堪えきれなくなって、口を開き、
「山路の老人のお伝言があって参りましたのですが、ご用をどうか伺いたいもので」
と促すように言い出せば、
「イヤー、どうもハヤ詰まらんことで」
と豪放に右の手を上げて頭髪を撫でたが、やがていかにも決心したというように真面目になって自己の膝を見詰め、
「水野さん、決してお怒りなすってはいけませんよ。万やむを得んからしょうがないのでお話しをいたしますがネ。これも小生の立場からいたしましてどうしようもないので、どうか悪く思わずご理解を願います。実は貴下のご評判が甚だ思わしくないので。イヤ、小生はどこまでも貴方を信じておりますから、他人が何と言っても構いませんが、どうも種々なことを申しますので、ハハハ。世間というものは煩いものでしてナァ、信仰の自由ということは厳然と許されておりますのに、貴下のことを妄想に陥ったの何のと申しましてナァ、それはまた、こういう理由からだのああいう仔細からだのと下らんことを言いましてナ、それでどうもとかく小生の耳へ煩いことが入ります。つきましては、小生が考えますには、貴下もそれでは生徒父兄の手前や何ぞ、どうも教鞭をお執りなり難いようなことにもなりましょうから、一応此村の学校をお退きなすっていただいて、他の学校へ行っていただいた方が貴下のためでもあり、またひいてはこの学校のためにもいささか利があるかと考えましたです。ご転校のことは貴下のご不都合にならんように、必ず小生が取り計らいますから」
と、辛うじて言い出したその真意は、自分の職を辞するようにということであった。
高田は重大なことだと思っているだろうが、水野はそれだけのことかと毛よりも軽く思って、
「解りました。早速お諭しの通りにいたしましょう」
と、こともなげに答えれば、高田はホッと息をついたようであった。
*1 水金……陶磁器の上絵に用いる金色の塗料。
つづく
 




