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幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(91)

 其 九十一


 水野が答えかねている時、羽勝はふたたび言葉を継いで、

「実は遠洋へ出る漁船などでは、便乗者を(こと)のほか迷惑がるのだ。しかし君が好むなら、僕は勧めても乗せたい。君を大洋の中へ引き出したい。ややこしく人が(から)む複雑な組織で、自然の真趣(おもむき)(おお)い尽くしている陸上から君を離れさせたい。直接(ただち)に自然の前に出てもらいたい。直接(ただち)に自然の詩巻を読んでみてもらいたい。僕は詩をよくは知らん。しかし僕が知っている自然は、僕の知っている一切の詩とは一線を画するものだ。僕は自然の何たるかを解しているという点においては、詩人に(まさ)っているとは思っていない。ただし、海上に関するこれまでの詩が甚だ軽薄なのは感じている。もし詩想のある人が大洋に浮かんで、自然の広大な背景の前で、人間が(おの)ずから抱く感じを味わったら、今ある詩のようなものは出て来ないだろと思う。まぁ想ってもみたまえ。あっちからこっちへ帰る路の、太平洋の真ん中あたりで、僕はただ一人舷頭(ふなさき)に立っていたことがある。ちょうど月は真珠を溶かしたような光を投げて一切(いっさい)を包んでいる。その中を走っている自分の船は何処へ行くのだろう。行く先も見えん、来たところも見えん。ただ淡い光が満ちている天水(そらみず)の中を歩いている。海は絹毛氈(きぬもうせん)のように(なめ)らかで美しく広がっている。柔らかい柔らかい、しかも心の正しい貿易風は、恩愛溢れるばかりの慈母(はは)の手から出る団扇(うちわ)の風が、()ている嬰児(あかご)の顔へ当たるように、そよりそよりと(うしろ)から吹いている。帆は一杯に張られたままでパタリとも動かぬ。休番(やすみ)のものは皆熟睡している。当番のものも、こくりこくりとやりかける。一切の用事は皆忘れられていて、胸の中にも頭の中にも何にもない。何一つ耳に立つ音もしない。何にも見えん(そら)と水の間を茫然(ぼっ)として見ていると、何時(いつ)かもう自分の身体も消えてしまって、やはり真珠が溶けたような月の光と一緒になって、大空の中に流れ渡っているような気がする。そういう気持ちになったことがある。その時の僕の心の中で味わったものは、とても僕の口では言うことが出来んが、あぁもし自分が水野であったなら、きっとこの(うるわ)しい何とも言えない感じを、文字に現して人に示すことが出来るだろうものをと、深くその時僕は思った。どうだ君、一つ海上に出て、自然が君に何を与えるかを試みてはみないか。きっと君のためになることも多いと思う。(なぎ)は凪で面白い。暴風雨(あらし)は暴風雨で面白い。海上の生活も半年くらいはよかろう。小さな屋根の下から飛び出してみないか。大熊星(たいゆうせい)の光は北で待っている。十字星の光は南で莞爾(にこ)ついている。大きい大きいこの天地ではないか。米粒に文字を書くように、細かいことばかり考え込まずとも、その米粒はしばらく(わき)に置いて、自然の大きな景色に親しんでみないか。どうだい水野、どう思う? 君が嫌なら仕方はないが、学校の教師も(もう)よかろう、一つ遊んでみてはどうだ?」

 と、(つと)めて水野の(こころ)を動かそうとして落ち着いて説得するように話したのは、恐らくきちんと準備して来たものと思われる。

 羽勝の(こころ)を理解しない水野ではない。少なからずその話に(こころ)を動かして、実際趣味(おもむき)のある海上の生活を試してみたい(おもい)が起こる(かたわ)ら、羽勝が自分のために思いを費やして、こういうことを勧めてくれるその意を感じて、嬉しいともかたじけないとも胸の(うち)で、何度も感謝し、また感謝するのであった。

 しかし水野は今ここでその言葉に(したが)うとも言いかねて、何と応えればいいのかと思い巡らしていた。それを見て取った羽勝は言葉も穏やかに、

「何も今君の返事を求めているのではない。船はおよそ十二月にだす心算(つもり)なのだから、それまでに時間もある、ゆっくり考えたまえ。もしそれまでにどんなことでもあって、海に出たいと思うようなことがあったら、いつでも相談に乗る、悦んで応じる。大洋を見るのもよかろうと思うよ」

 と、少しも無理強いしないように言えば、

「賛成だ、大賛成だ。大洋生活をやってみろ、水野。女の(そば)なんぞにへばりついていないで、飛び出せ、飛び出せ、羽勝と一緒に行け。お濱さんでさえ魯敏孫(ロビンソン)と一緒に暮らそうという気概があるじゃないか」

 と日方の(ほう)(かえ)って強い立てた。


つづく

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