幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(90)
其 九十
花はものは言わないが、花があるだけで野は自ずと春になある。あどけないお濱一人が交じっているので、その場は和らぎ、理屈を離れれば談話に角も立たず、ようやく笑い声が出始めれば酒も味わい深くなる。真面目な羽勝、沈み込んでいた水野さえも何時しか六、七年前の往時に復って、心若く、気安く語り合えば、まして日方は調子に乗り、羽勝が先ほど嫌い斥けた天真爛漫となり、酔っ払って、受けては飲み受けては飲み、
「島木の馬鹿野郎、一緒に来ればよかったのに。金儲けで忙しがったって何になるものか」
と何度か繰り返し罵っては、また熱心に二人を相手に談笑して盃を手にした。
「お濱さん、その色の黒い真面目老夫の羽勝に飲ませてやってくれたまえ。コラ羽勝! 飲まんかい、水野の妹の酌だ。ハハハ船ではなるべく酒を用いん習慣をつけているから飲めんなぞと言うのは虚言だろう。船員は大抵よく飲むと言うぞ」
「イヤもういかん。虚言ではない。船ではなるべく用いんようにしているのだ。執務がおろそかになる基だから飲酒は忌む。これは海員の精神が進歩した結果だ。古来海員が飲酒に耽けるという悪習を洗う責任は我々の肩に掛かっているのだ。だから実際僕などはあまり用いん。しかし、烈しい暴風雨の時、襯衣まで濡れ浸りながら、困苦極まる労働をした後などでは、水夫等にも少量の酒類を与え、自分らも少しは用いる。その味はまた君等の知らんところだ。烈しい怖ろしい風、酷い痛い雨、真っ黒な天、荒れ立つ水、造物主がその偉大な働きを見せる大洋の上で、木の葉にも等しい孤舟に立って、ただ自分の堅い意志と智識の判断とだけを味方にして、あらゆる試練に耐えて、気力を振り絞って突き進み、終にその試練に打ち勝ち果せた時、ラムでもジンでも日本酒でも、一小杯を手にして自ら労うその一種言うに言えない感じは海員でなくては解らん。陸上の料理屋なんぞで飲むのとは全然異う味がする。僕はただそういう怖ろしい暴風雨の後なんかに、湿気払いのため、疲労回復のために、飲む時だけは真実に酒を楽しむが、その他の時にはさほど好まん。もう沢山だ。大分酔った」
「そう固いことばかり言うな、さぁ一盃やる。見ろ、お濱さんが眼を丸くして、一心に君の暴風雨の談話に聞き惚れている。その罪のない純潔な様子を見ろ。この人が勧める酒を飲まんと言うことがあるか」
水野はここに至って自ずから微笑を催し、
「羽勝君、まぁ一つやってくれたまえ。魯敏孫漂流記を読んで非常に感じ入って、魯敏孫と一所に住みたいと言ったほどの崇拝者となっている、航海者好きのその人のお酌だから」
と、前の夜のことを思い起こして語り始めれば、
「あら、よくってよ先生、余計なことを」
と、お濱が打ち消すように言うや否や、日方は微笑まし気に、
「何だ? 魯敏孫の崇拝者だと! こりゃぁ面白い。偉い! そう来なくちゃならん、それでなくちゃいかん。実に愉快な人だ。頼もしい! なるほど、日方が頭を撲られたのも無理はないわ。ハハハ、君のような人になら、もう少し打撲られても構わんわ、あぁ面白い。水野猪口を与せ、さぁ魯敏孫夫人、お酌を願う」
と面白がった。
しかし羽勝は冷然として、ただお濱を一瞥しただけで、水野に対ってもの静かに、
「海国の日本のことだもの、魯敏孫漂流記に興味を感じるような女子が出て来てくれるのは当然のことだ。僕はこの席でさえこういう婦人を見る世の中に、まだ海国の日本の詩にも小説にも、海に関したものが甚だ少ないのを遺憾に思う。水野! 今年中には島木の船をどうしても出す。僕は無論全権を有って出かけるのだ。どうだ君、一つ奮発して海上に出んか。決して危険なんぞありゃしない。好い機会だ、大洋の美観壮観を君の眼に入れんか。茫々たる大洋の大きな景色の中へ出て、人間のごちゃごちゃした葛藤を逃れて、直接造化の懐中に寝てみんか水野。きっと君が感じたことのない心地がしようぜ」
とかねてから考えてきたことなのだろう、水野の思いもつかなかったことを沈着いて言い出した。
つづく
 




