幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(71)
其 七十一
お龍が頭を下げて礼をしつつ、次いで言葉を発しようとした時、
「イヤお待たせいたしました、小生が水野です」
と、言ったその言葉があまりに明晰として冗所がなく、また余裕もなく、石甃を見るような角張った言い方で、声つきも自ずと威勢あったので、お龍はそれに呑まれて、釣り込まれ気味に自分も堅くなり、
「あの、私は岩崎の母のところから参りましたもので」
と、先ず一言、判然と、どこから来たのかを告げた。
「ハァ、それでは貴下はご近所の方ででもいらっしゃいますか」
「ハイ、イエ、ご存じないとは思いますが、私はあの、あちらのご厄介になっておるものでございまして、元はあちらでお稽古を願ったものでございます」
「アァそうですか。して、お師匠さんはお変わりありませんか」
師匠は打ち叩いても死ぬようなこともないくらい壮健で、酒を飲み、情夫と連れだって遊び歩いているものを、こんな生真面目な人に虚言を言うことのは心咎められるけれど、
「ハイ、有り難うございます。まぁ別状はないようなものでございますが、先般からちょっと時候の変化に負けてしまい、弱っておりますので」
と、やむを得ず予て用意していた言葉を口にした。
「それはどうもいけませんナ、ただの風邪ですか」
「イエもう、真のちょっとしたことでございまして、しかも今は治り加減でございますから、ご心配なさいませんよう。そのようなことで私が出て来ました様な訳でございますが、師匠が申しますには、過般からはまた度々のお手紙で、五十の病気を一々お知らせ下さったり、その上またいろいろお世話を戴いたりしまして、お礼の申しようもなく有難く存じてしております。早速自分も出て、お礼を申し上げ、五十の見舞いも看病もいたさなくてはならないのでございますが、生憎自分も患っておりますので、承知していながらも思うようにも参りません。水野さんがいらしって下さるから好いわでもって、打棄っているようで大変心苦しく思っているのでございますが、まったくそういう訳ではございません。ご承知の通りの女暮らしで、自分のことだけで精一杯ですので、ああもしたい、こうもしたいと色々に心では思っておりましても手が届きませんから、ただ蔭でもって神信心ばかりいたしているような訳でございます! とこう申し上げて、どうか何分にも悪しからず思し召しくださいますようにと、善くお前から正直なところを細かに話しておくれとのことでございます。また、どうかこの上にもお世話を下されば嬉しゅうございます。老母は勝手な奴だ、顔も出さないと、お愛想尽かしになりましても、病人は何も知らないことでございますから、お愛想尽かしをなさいませんように。五十のことは実に我が儘な申し様ですが、早くから貴下にお任せしたつもりでおりますのでございますから、お心持ち次第でどのようにでもなすって戴きたく、ご親切な貴下のお世話を戴いて、それでいけなくなってしまっても残り惜しいことはございません。まったく本人に運がないのだと諦めます。いずれその中に是非とも伺ってお礼を申すつもりでございます。お前、あちら様へ上がったら、どうか私がこういう気持ちでおりますと言って、十分にお礼を申し上げて、そして五十の病気の様子も伺ってきておくれ、とそんな風に申すのでございます。それでお馴染みもない私ではございますが、他に参るものもないのでございますから、ちょっとお訪ねしたのでございます」
お龍は果たさなくてはならない使者の役目を勤めようという一心で、一生懸命になってそう話終え、辛うじて言いつけられたことだけは言うことが出来たので、ホッと息を吐いた。そうして、男の様子はと見れば、男は律儀真正直に身動きもせず謹みながら耳を傾け、見え見えの虚言を確かに道理と聞いたように見えたが、このような人を口先で操る自分が羞かしいという気持ちになった。
「ハイ、一々精く解りました、承知いたしました。お返事がなかったものですから、色々に心配はいたしておりましたが、そういうお言葉を伺いました上はなおのこと、水野が出来るだけのことはいたします。五十子さんのことはご心配なく、よくご養生さすって、早くご全快なさるようにと仰って下さいまし。五十子さんは必ず私が癒らせます。どうしても一度はきっと癒らせますと小生が申したと仰って下さいまし」
人の命というものは分からないのに、あぁその言葉の何と男児らしく頼もしいことか。声が大きくなったのも、誠意が籠もっているからであろう。その言葉の力強いのに驚かされて、お龍は今また更めてそっとその人を伺えば、いささか窶れた浅黒い顔の、鼻筋が通り、口が締まり、巌も黒鉄も貫き徹すような精神は、切れ長で尾上がりの眼の中の光に現れ、生まれて初めてこんな意気の鋭く烈しい、古の物語に出て来る勇士のような人を眼の前に見て、あぁ何という気味の好い人と、千仞の深い崖に臨み立ち、吹き来る秋風に袂を煽らせた人のようで、凄まじい中にも爽快を覚えて、怖いと思いながらも好ましく思ったのであった。
つづく