幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(87)
其 八十七
羽勝の同情の厚い、しかも道理正しいその言葉には力がある。その意には仁がある。それでなくてもこの頃感じやすくなっている水野であるから、心の中に深くその恩を感謝しながら、言われたことをじっくり味わっていると、羽勝は復び口を開き、
「僕の言葉は、もしかしたら漠然として、捉えどころがないようにも思えよう。しかし僕は漠然としたことは決して言わない。どうやって手を下せばいいのか分からない教訓を僕は嫌う。着手するところが判然していないと実務は務まらん。収穫の皮算用を播種の前にするのは最も嫌悪するところだ。ただ感情の訓練と言っても、着手のところを言わねば空言になる。煩いかも知れんが空言にならないように、適切に敢えて君のために言おう。言い過ぎて無礼になっても免したまえ。たとえば人を思うとすれば、その情は胸中に鬱滞して結ばれる。またたとえば人を怒るとすれば、その情は心頭に狂い立って止まぬ。それをそのままに任せておけば、自分のすべき本分はそのために誤ってしまう。船夫が思いも寄らない過失をして、不測の禍害を齎してしまうその多くは、胸中に職務以外の何ものかが蟠って、職務中、放心している時に起こる。また一船の平和の破壊は激烈な感情の暴発に基づく。だから自分が自分の当直時間だけは、たとえば甲板にいて執務する間は、どんな私情が胸中にあろうとも、それを圧えつけて勝手に気ままにさせないように敢えてしなければならない。親を思うのは子の真情だ。しかし、病んでいる親を思って茫然としたため、船の針路を過って浅瀬へ乗り上げたでは済まない。職務を執っているその間だけは、どんなに孝行な子でも自ら我慢して親を思う情に気を取られぬように、気を引き締め、胸中を清潔にしておかねばならぬ。湧き上がり起こり立つ感情を抑制せねばならん。訓練して自分の命令に服させねばならん。これは実務に身を練るものは必ず知っているところ、日方などもきっと経験しているところだ。ただ世の中にある種の人がいて、自ずから感情の訓練を敢えてしない履歴を有している者がいる。僕に言わせればその人は最も不幸な人だ。直言すれば、水野、君がその人だ。君は美しい感情を有していて、今までは訓練を必要とすることがなかった。それほど美しい感情を有していたのだ。その上、感情の訓練の必要を感じるような職務に身を置かなかったのだ。だから感情の訓練の履歴を有していないのだ。それ故、大いに君を苦しめるのだ。感情は馬だ。鋭い感情を有している人は足の速い優れた馬、すなわち駿馬に乗っている人だ。駿馬というのはより一層訓練しなければならん。でないと、乗っているものが危うい目に遭う。水野、君は生まれつき駿馬に乗っている人だ。そして今その駿馬は滅茶苦茶に走り出しているのではないか。谷に陥るか、崖から墜ちるか、淵へ躍り込むか前途が知れん。僕等は傍から見て冷や汗を流し この上もなく背筋を寒くしているのだ。善く御さなければ危険は目の前だ。どうか敢えて訓練をしてくれたまえ。馬のための人ではない。人のための馬だ。馬というものは人の命令に服させ、そしてその能力を発揮させた時、はじめて駿馬の値打ちが出るのだ。文覚のようなものは馬術も修得せず、一生荒馬に乗って、無闇に駆けて、終いには撥ね落とされて死んだのに過ぎん。僕等は足ののろい駑馬に乗っているが、君は幸いに駿馬に乗っている人だ。くれぐれも言う。人のための馬だ。馬のための人ではない。どうか善く鋭い感情を御して、君が千萬里を駆け廻っている姿を見せてくれたまえ。駿馬のために谷に陥り、淵に落ちる不幸を見せてくれるな」
と、繰り返し教え諭すようにして徐に説く時、日方は膝を打って賞賛しながら、
「そうだ! 確かにその通りだ。流石、羽勝の言だけある! この馬で陣に臨んで久しく敵なし(*1)という句が、その次に続く、人と一心にして大功を成すという句(*2)の、與人一心という四字が響き渡って、今更ながら正に面白く感じられる! 水野、馬を自分の意に従わせなければならんぞ」
と、傍らからまた言葉を添えた。
*1 この馬で陣に臨んで久しく敵なし……「此馬臨陣久無敵」――この馬で出陣して長い間負けたことがない。杜甫の「高都護驄馬行」と題する七言古詩 *2も同じ
*2 人と一心にして大功を成すという句……「與人一心成大功」――乗り手と心を合わせ、大きな功績をあげる。
つづく
 




