幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(84)
其 八十四
お濱はどこかに去ってしまって復びは現れなかった。むくつけき田舎女のお鍋はお茶を持って来たが、先ず無作法に人々の顔を見渡して、初めに羽勝の前へ茶を薦め、次に水野の前にまた茶碗を置き、茶を注いでその茶碗を満たしながら、日方の前には注ぎもせず、
「お前様は勝手に注いで飲まっせぇ」
と言わんばかりの顔つきをして、その辺に散らかったものを取り片付けて、黙って退いてしまえば、水野は気の毒さに堪えられず、自分で茶碗を取って日方に与えた。
日方はこれらの瑣事には何ら気も遣わず、感慨に堪えないという顔色で、睜開った眼には涙さえ宿して、
「水野! もう俺は一通り言い尽くしたから繰り返してまた言うのではないが、どれほど心が弱ったとはいえ、貴様は何という衰え方だ。迷うなら迷うで仕方はないようなものの、迷い方にも色々あろう。迷うにしても何故男児らしく迷わぬ? 貴様の衰えに衰え果てて、女の腐ったののように成り果てたのが、何より彼より情けないわ。貴様は元から剛強な骨太な男というのではなかったが、外面は柔らかでもことによっては、人と争っても決して後へは退かぬ、恐ろしい気合いを含んだ奴で、舌を刺す厳しい酢のようなところがあると、平生俺が評したほどの男児であったが、今はどうだ。酢は酢でも腐った酢になってしまったのか、黴びてしまったのか。俺に打たれて抵抗もしないようになったとは、あぁ情けない! オイ、眼を開いて天地を見ろ! 画工に画を教えない草木はない。男児を磨くものに、自分の精神を奮わせて歩みを進ませる鞭や刺馬輪(*1)でないものはないぞ! 眼を瞑っていて見なったか! 気がつかんかったか! この放心感! 此家の小娘が今、何をした、齢はたった十五か十六かで、俺の一攫みにも足らん優しい身体、それでも流石に日本の女だ、平生一ツ家にいる貴様が、俺に撲たれ辱められるのを見て、憤っては、身を挺して貴様を護って俺に当たり、あの愛らしい美しい眼から宝石のような光を輝かせて、真紅な顔に血を沸して打ってかかったではないか! 女性だ、小児だ、か弱い娘だ、それでさえ気持ちが奮い立てばこの日方にも取ってかかる、それが貴い人間の勇気だ、人の人たる所以を支えるものだ。それだのに何だ、貴様のその態は! 一少女にも及ばなくなって、ただ崩折れて萎れきっている! よくあの娘に対して慚死しないものだナ。水野! 貴様は決して決して本心を失うような、そんな不甲斐ない奴ではないが、どうすればこんなに意気地がなくなった。ここの娘の挙動を眼の前に見て、よく貴様は自分が羞かしくないナ。一少女でさえあの通りだ。貴様は堂々たる男児ではないか。俺はあの娘に頭を撲たれたが、貴様は精神に鞭を受けなかったか。いやしくも元の水野であるなら、人一倍ものを思う貴様のことだもの、きっと感じて奮い立たずにはいられないはずだが、衰え果てて弱り果てた今の貴様は、やっぱり首を垂れるだけか。此家の娘の健気な振る舞いと、貴様の萎れきった状態とを見比べ思い比べると、この日方はこれほどまでに貴様は衰えたかと、貴様の衰え果てたのが悲しくて涙が出る! 女にも劣るようになったとは余りに情けない! 何故迷うにしても男児らしく迷ってくれぬ?
*1 刺馬輪……馬に刺激を与えて走らせる馬具。拍車。
つづく




