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幸田露伴「天うつ浪」(後篇)現代語勝手訳(80)

 其 八十


 水野、まさか貴様はまだ自分で言ったことを忘れるほど耄碌(もうろく)はすまい。数年前に我々が寄り合って、互いに抱負を語り合って談笑した時、日本男児の身を()ちながら詩文の小技に身を委ねようとはどういうことだ、『(ちょう)(ちゅう)篆刻(てんこく)壮夫は為さず』(*1)と(よう)(ゆう)(*2)などでさえ言っているのに、歌だのポエムだのと()ね返して、食えもせず、()られもしないものに苦労しようとは、道楽過ぎて余りにも詰まらんと、俺が口を極めて非難した時、今と(ちが)って元気のあったその頃の貴様は、眉を()げ真正面を向いて凜として答えたその返事に何と言った! 食は身の(かて)、詩は心の糧、(きもの)は暑さ寒さに対して人の身を(まも)り、詩は悲しみにも怒りにも(むか)って、人の心を調(ととの)える、それを益のないもののように言うのは浅ましい誤謬(あやまり)。貝に真珠あり、人に詩ありだ。詩歌を除けば、人が作ることができるものに、野菊の花の一輪ほどの美しささえあるものはない。咸陽(かんよう)に造られた阿房宮(あぼうきゅう)などは(はず)かしいほど醜い。(うるわ)しい胸の働きは目には見えないが、それが凝って結晶し、詩となり文字に表されれば、読むものは恍惚として我を忘れて、作る人が泣けば泣き、(いか)れば(いか)る。そうであるなら、人間の性情を(あつ)くし、世の気風を()くするものとして、詩を越えるものはない。大言を吐くようだが、この水野はただ蝶や花のおもしろさや(げつ)()のあわれさを歌ってだけの一生にはしない。百年千年に一度出る大詩人の、世の人々の気持ちを一新させ、万世に天の意思としての真の(ことわり)を伝えようとするそれには及ばないかも知れないが、時勢の幇間(たいこもち)となって徳を()(たた)えるような賤しい(こころ)は微塵も持たない。長い眼で見ていてくれたまえ、この水野はたとえ世に(そむ)いても、世と争っても、きっと血もある涙もある詩を作って、このすぐれた天子の治める世に生まれ合わせた男児一人として、仕務はそれで果たすつもりだと、確かに潔く言ったではないか。その意気はどこへなくした? その言葉は(もう)忘れ果てたか、ヤイ水野! 詩の一篇も作ろうというものなら現在(いま)の世の人情の有り様にはしっかりと眼を据えていようが、今の日本の状態(ありさま)をどう思う? 貴様! 今の世界の状態(ありさま)をどう思う? 貴様! 浪の立たない海も無ければ、風の荒れない空は無ないぞ。国は国と競り合い、人種は人種と闘う。世界の浪風は轟々(ごうごう)として、我が国の浜へも磯へも寄せて来ているではないか。それなのに国内の状態(ありさま)はどうだ。武士道は(すた)り、儒教は棄てられ、古い教えは壊れ果てた。真面目に受け入れられた新しい教えも無く、過去帳を読むように哲人の名ばかりは(せわ)しく呼び立てられて、やがて直ぐに片端から忘れて行かれる! 社会に善悪の目安が無いから、勝手次第の強い者勝ちになる。智慧で争う、言説(くち)で争う、筆で争う、金で争う、しかし道理で争ったのを聞いたことがない。金を欲しがる、権威を欲しがる、名を欲しがる、肉慾の満足を欲しがる、しかし徳を欲しがるものは薬にしたくもない。坊主が役に立たん、新聞記者が頼もしくない、教育家が下らん、学者は学説の追従(ついしょう)ばかりだ。文学者は(はる)()さん(しず)()さん(*3)のご機嫌取りに過ぎん。世間一体はまったくまとまりがなく、銭のある時はハイカラになり、銭の無い時はバンカラになる。(せがれ)は恋愛論、親父は料理談、一般の趣味は日に日に堕落している。想像するだけでも恐ろしい世界のありさまだ。見るのさえ嫌な人情の調子で、あれやこれやを思い合わせれば、この無骨不風流の俺でさえも、無限の感慨に打たれて、詩のようなものを(うめ)き出したくなる。まして貴様など、感慨の無い訳はあるまいに、何故光り輝く神州男児の丹心(まごころ)から、国を愛し世を憂う誠の一片を披露すべく、詩でも文章でも作り出してくれぬ? いいか、(なま)っちょろいことではないぞ。今の今でも国運を賭けて戦争(たたかい)を始めれば、さしずめ俺たちは水火の中にも飛び込まねばならぬような状況が(せま)っているのだ。しかし、詩は興が発しないと出来ないと言われればそれまでのこと。出来んなら出来んでしょうがないが、貴様までが世の風潮に負けて恋愛騒ぎをするとは何事だ。そんな弱々(よわよわ)とした性根の抜けたことで、何が詩も歌もあったものか。時勢の幇間(たいこもち)にはならないと言ったその意気は今どこにある? (まさ)しく貴様は時勢の幇間(たいこもち)となった、奴隷となった、犬となった! 男子の(まこと)の心を失った。男心(おごころ)も無い阿呆(たわけ)になったナ。『恋の(やっこ)と我は死ぬべし』とは何たることだ。この普門品(ふもんぼん)は誰が()んで、その下らん御籤(みくじ)というものは誰が()った? ちらりと聞けば観音詣(かんのんもうで)をして、そうしてやっと今帰ってきたのだナ。貴様が思っている女が大病だとかいう島木の談話(はなし)も思い合わせて、すっかり貴様の所業(していること)は分かったが、女のために(きょう)()んだり、御籤を取ったり、わざわざ浅草まで足を運んだりしているのだナ。エーッ情けなくも衰えに衰えた奴だ。書も読み、理にも(くら)くない水野ともあろうものが、いかに迷ったとは言え、一婦人(いっぷじん)のために、それほども()になり果てたか。魔に憑かれたか、何に憑かれたか、全然(まるで)正気の沙汰ではない。男児(おとこ)魂魄(たましい)が少しでもあれば、正気に返れ、正気にしてやろう。目を覚ませ水野」

 と言いさまに、普門品を右手に鷲掴みにして、左手で水野を取って引き伏せ、

「情けない奴だ! 正気に返らんか、朋友(ともだち)情誼(なさけ)だ、身に染みて受けろ」

 と、ピシリピシリと続けさまに打った。


*1 (ちょう)(ちゅう)篆刻(てんこく)壮夫は為さず……詩文を創るのに、若い頃は小さな虫の形や篆書を彫刻するように美辞麗句を好んで作ったが、壮年となった今は、細かい技巧など、必要以上にこだわりはしない。

*2 (よう)(ゆう)……中国、漢代の儒学者、文人。

*3 (はる)()さん(しず)()さん……そういう女性が実際に存在したのか分からない。世間一般の女性を指して言ったものか?


この日方の説く世界の情勢や日本を嘆くくだりは、もちろんすべて首肯するものではないが、何だか今の日本の状況にもどこか当てはまるようで、私には興味深かった。

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