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「あ、碧先生!」
「水田さん…」
私は慌てて笑顔を装ったけれど、私を見る碧先生の顔は強張ったままだ。
彼女のことを尋ねられ、私は努めて明るい声で答えた。
「ここに、病院コンサートでピアノを弾いてくれた伊藤彩李さんは居なかった?」
「あ、私、お話ししましたよ!」
「彼女がどこに行ったか知ってる?」
「そろそろ行かないと、と言って帰られましたが……」
「いつぐらい?」
「10分ほど前でしょうか」
碧先生が何かを考えているようで、沈黙が流れる。
その沈黙すら今の私は耐え難い。
心臓はこれ以上にないくらいドクドクと高鳴っているし、背筋にも冷や汗が伝う。
「伊藤さん、また体調崩されたんですか?帰る時、顔色もあまり良くないようでしたし……。碧先生は伊藤さんにご用だったのですか?何かお伝えし忘れたことでも?」
「伊藤さん具合悪そうにしていたの?」
碧先生は驚いた表情をして、私と視線を合わせる。
そしてそれは、すぐに何かを探るように鋭い視線へと変わった。
「ええ。私も帰られる時に気がついたんですけど。
血の気が引いたような顔色だったので、声をかけて引き留めようとしたのですが、かける間もなく帰られてしまって……」
目線は私に向けたまま碧先生は、また沈黙する。
もはやその沈黙を破る言葉を紡ぐことは、私にはできなかった。
「ところで、彼女と何を話をしてたの?」
「はい。コンサートのお礼と次も楽しみにしていることをお伝えしましたけど」
「それだけ?」
沈黙を破ったのは碧先生だった。
当たり障りのない答えをしたつもりだったけれど、即座に冷たい声色で尋ねられる。
私に向ける視線は更に鋭くなり、頑張って上げている口角が引きつりそうになる。
「え…? 碧先生がピアノを弾かれることとか…」
「それから?」
「あと……幼馴染と同じピアノの先生だったとか……」
「それから?」
「…リサイタルで、隣の席……だったとか……」
「それから?」
「……その後、食事に行ったこととか……」
「それから?」
「…もっ…もう他には言っていませんっ」
今まで見せたことのない迫力で、碧先生から詰め寄られ、私は血の気が引いていくのを感じていた。詳しく話せば責められる。そう思って、震えそうになる声を押さえながら、大まかな内容だけをたどたどしく伝えたのだが、碧先生は納得できなかったようだ。
更に私に問い正す。
「リサイタルで隣の席だったのは偶然だったって話した?
食事は祝勝会で、聴きに来ていた親しい人や同門の生徒がたくさん来ていたこと伝えた?」
「え…えっと……あの……
でも、私、嘘は言っていません!」
もうごまかすことはできない。
絶望が私の中に広がる。
碧先生の表情がピクリと動き、明らかに不機嫌な表情を見せる。
せめてもと思い最後につないだ言葉が、碧先生の逆鱗に触れてしまったと気づいた。
「嘘ではないけれど、真実でもない。
聞いた人が勝手に誤解したんだって、前も言ってたよね。
1度目は、そういうこともあるかと見逃したけれど、2度目は確信犯だよね」
「私………」
「あの時、君は言葉が足りなかっただけで、僕への好意からではなかったと謝罪したけれど、全く反省してなかったってことだね」
「い、いえ……。本当に……本当にそんなつもりは……」
こんな碧先生見たことがない……そう思ったのは一瞬。
ああ、私は知っている。碧先生は温和で優しいだけの人じゃない。
小さい碧先生がいつも憮然とした表情で、感情を隠すことなくピアノを弾いていたことを思い出す。
手足がガクガクと震え、全身から冷や汗が流れ落ちてくるが、そんなことに気に掛ける余裕は全く無かった。
「そう?前に勤めていた病院でのこと、僕は知ってるから。
僕は卑怯なことをする人間と親しくするつもりはない。
それに、はっきり言っておくよ。僕は君に対して特別な感情を抱いたことはないし、これから抱くことも決してないから」
「……っ」
冷たい声で碧先生からきっぱりと言い切られ、涙があふれ出す。
踵を返し足早に去る碧先生の姿は、涙に滲んですぐに見えなくなった。
*♪*♪*♪*
「水田さん」
私を呼び止めたのは、耳鼻咽喉科の看護師の田﨑さんだった。
あの日の出来事があって、私はこの病院を辞めることに決め、今日は最後の勤務日だった。
気にかけてくれた田﨑さんに最後に挨拶ができて良かったと思う一方で、耳鼻咽喉科の看護師である田﨑さんは、碧先生や患者さんとのことをご存じなのではないかと思うと気まずい。
「今日で退職すると聞いたわ」
「お世話になりました。あの……碧先生や先生の患者さんには大変ご不快な思いを……」
深々と頭を下げ謝罪の言葉を口にすると、慌てて否定された。
「ああ…。そうじゃないの。あなたを責めようと思って声をかけたわけじゃないのよ。
あのね、黙っていて最後に言うようで申し訳ないんだけれど……」
そう言った後、ためらいがちに田﨑さんが話し始めた。
「あなたがこの病院に来てから見ていていたけれど、あなたは患者さんに心から寄り添って仕事をしているんだなって思っていたの。あなたのことを耳にするたびに頑張ってるなと思っていたから、今回辞めてしまうのが本当に残念で……。
前の病院で色々あったみたいだけれど、私が見る限り、聞いていたほど悪いことをする人には見えなくて。ここは辞めてしまうことになるけれど、看護師という仕事は続けてほしいと思って声をかけたのよ」
この病院に、前の病院でのことを知っている人がいたということは驚きだったし、知られてなお、私にいつも声をかけてくれていたのだと思うと、気まずい思いが胸に広がった。
それでも、田﨑さんが言ってくれた「頑張ってる」「辞めてしまうのが残念」という言葉が嘘ではないと思えたのも事実だった。
私が以前したことを知っていたにも関わらず、それ以上の色眼鏡をかけることなく、私という人間を見ようとしてくれた人がいたのだという事実に感謝が湧き上がってくる。
また、同じことをしてしまった自分に嫌悪感を抱いていた。
なんて駄目な人間だろう。何のとりえもない上に、人を僻んで傷つけて……
そんな私に、声をかけてくれた。
「ありがとう…ございます……」
ポロリと私の頬を涙が伝った。
*♪*♪*♪*
今日、私は新しい職場へ初めて出勤する。
あの後、私は荷物をまとめ、住み慣れた土地から離れることにした。
あの時、「私は何のとりえもない」といった私に、田﨑さんが言ってくれた言葉。
「そう……。とりえがない、そう思ってしまうほど辛かったのね。
でも、私はあなたが何のとりえもない人間だとは思わないわ。
だって、ほら。
あなたは腕にたくさんの人たちからの感謝の想いを抱えているじゃない」
あの日、病院を去る私の腕には、同僚からの花束やメッセージカード、そして子どもたちからの手紙や折り紙などが入った袋があった。
「目に見えたり、耳に聞こえたり……わかりやすく評価できるものだけが価値のあるものじゃないわ。もちろん、今あなたの手の中にあるのは目に見えるものだけれど、これはあなたへの感謝の気持ちが見える形になっただけ。
その気持ちを引き出したのは、あなたの仕事に対する態度であり、患者さんへの想いよ。
素敵なものをちゃんと持ってるわ」
こんな私を認めてくれる人たちがいる。
それを伝えてくれる人たちがいる。
田﨑さんが声をかけてくれたことで、私は大切なことに気づかせてもらえた。
これまでの私に、後悔すること、反省することはたくさんある。
けれど、それに囚われすぎてしまうと、自分を否定するだけになってしまう。
少しずつでいい。
自分を好きだと思う部分を作っていきたい。
自分自身を認めてあげる私でありたい。
「私にも出来ることがある!」
澄碧の空を見上げてそう口にすれば、少しだけ勇気づけられ前向きな気持ちになれた。
私は、私が出来ることをするだけ。
頬を撫でる心地よい風を感じながら、私は歩き出した。
(完)
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