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あの日以来、私の中で何かがおかしくなった。
矢那井先生のことを……彼女とのことを知りたくて、いろんなスタッフから情報を集める。
変に思われないように、あくまで自然に……
―――彼女が通院で来る日は、明らかに碧先生がそわそわしているらしい。
―――碧先生が彼女の連絡先を手に入れて、今度会うらしい。
―――咲田先生が碧先生にお出かけにおすすめの場所を教えたらしい。
―――矢那井先生が彼女と一緒に出かけたらしい。
ただの同級生なのではないの?
一緒に出かけたって同窓会よね?ふたりだけのはずない。
だって、しょせん皆が話す噂だもの。嘘じゃないかもしれないけれど、真実だとは限らないもの。
信じたくない。
かつて自分がしたことに、今は縋っているなんて。
私は自分を嘲笑いながらも、碧先生の情報を集め続けることを止めることはできなかった。
そんな時だった。
彼女が病院でロビーコンサートを開くらしいと耳に入ってきた。
「ねえ、ねえ、水田さん聞いた?碧先生のとこのピアニストの患者さん、今度病院のピアノでミニコンサートするんだって」
「あ、私も聞いた!ヴァイオリンの人も来るんでしょう」
「楽しみよねー。私、その時間に聴きに行けるかな?
水田さんは日勤だったら、病棟の子どもたち連れて行けるよね。うらやましいなぁ」
昼食を食べていたら、後から来た看護師が話しかけてくると、近くに座っていた看護師も話に入ってくる。
うらやましい?
その言葉が私の心に引っかかる。
だって……私は彼女の演奏を聴きたいわけじゃないもの。
碧先生と彼女が同じ空間にいるのを見たくない。
それに……聴いたら、きっと思い出してしまう。
―――「やっぱり、頭がいいからピアノも上手なのよね」
―――「ええ、先生も仰っていたわ。頭が良くないとピアノは上手になりませんって」
そして、無邪気に放った母の言葉。
―――「美咲も早くあれくらい弾けるようになるといいわね」
*♪*♪*♪*
ロビーコンサートの日、子どもたちを一番前の席に座らせた後、様子が見れるように少し離れたところに待機した。子どもたちは綺麗なドレスを着て現れたふたりに釘付けになっている。みんな目はキラキラと輝いて、頬の血色も今日は良いように見える。
子どもたちが喜んでいることを嬉しいと思えているということは、自分は冷静なのだと自身に言い聞かせて、この会場のどこかにいるはずの人を探した。
碧先生……
後ろの方、少し離れた場所で、柱にもたれかかるように立っていた。
穏やかな表情を浮かべて、演奏するふたりを見ている。
いつもと変わらない表情。
やっぱり、ただの同級生?
縋るように見つめていたのに、その思いはあっさりと打ち砕かれてしまう。
ピアノの演奏が始まった途端、碧先生が息を飲み、泣き笑いのような顔になった。
そして、キュッと目を閉じて聴き入ったのだった。
流れているのは『月の光』。
これ、矢那井先生も弾いていた曲だった……
私の想いは届かない。
本当はとっくに気づいていた。わかっていたのに……
*♪*♪*♪*
私は、自分で取り返しのつかないことをしてしまった。
通院を終えた彼女を偶然カフェで見かけたあの日。
コンサートのお礼だけで終わればいいのに、私は自分の暴走を止められなかった。
「今度は夏休み明けだそうですね。碧先生から伺いました」
「そうなんです。大学の夏休み中は忙しくしていて……」
「リサイタルがあるそうですね」
「よくご存じで……」
「はい。碧先生が仰っていましたから」
「そうですか……」
彼女の戸惑う様子に、罪悪感を感じる私と、喜んでいる私が自分の中に混在している。
「そういえば、碧先生もピアノお上手ですよね」
「ええ。私は高校生の頃にしか聞いたことありませんが……その頃もとてもお上手でした」
「外来の方が帰られて誰もいない時間に弾いていらっしゃるのを、時々聴かせていただくんですよ。それに……」
「それに?」
それまで言葉少なく、私の質問に答えるだけだった彼女が、初めて私に問い返した。
その反応が嬉しくて、言葉を重ねる。
「私の幼馴染が碧先生と同じピアノの先生だったので、小さい時から発表会でお見かけしていて。昔から本当にお上手ですよね。私、この病院に1年ほど前から勤めているんですが、碧先生がいらっしゃって本当にびっくりしました。再会できて、またピアノを聴かせていただけて嬉しかったです!」
「……そう……ですか」
本当は私が一方的に聴いていただけ。
だけど、小さい時から知っていたことも、再会できてピアノを聴いたことも嘘ではない。
それに、再会が嬉しかったことは本当のこと。
彼女は笑顔を保とうとしているようだけれど、口角が下がり始め、返す声もどんどん小さくなっている。
そして……それを嬉々として受け入れている私がいる。
もうやめよう、そう叫ぶ私も自分の中にいるのに、暴走を止めることができない。
「碧先生、昔からとても素敵な方でした。とってもお優しいし。
先日、ピアニストになった幼馴染がリサイタルをしたのですが、碧先生お祝いのお花を持って駆け付けて下さったんです。私、隣で一緒に聴いていたんですが、同門の活躍をとても喜んでいらっしゃいました」
「…そう…でしたか……」
「その後行った食事の席でも、嬉しそうに彼女のリサイタルの話をしていたんですよ」
すっかり顔色を悪くなった彼女は、「お話し中にごめんなさい。私、そろそろ行かないと……」そう言って席を立った。
目にはうっすらと涙が滲んでいる。
彼女が傷ついて立ち去る姿をみて、私に残ったのは喜びよりも虚しさだった。
話しているときは、あんなに気持ちが躍っていたのに……
私は……彼女を傷つけてどうするつもりだったの?
だから、碧先生が慌てたようにカフェへと入ってきたのを見て、後ろめたさのあまり声に出してしまったのだと思う。そして、その名前を声は思っていたより大きくて、碧先生の耳に届いたのだった。
【トビュッシー】
ピアノ曲「月の光」を作曲したドビュッシーは、ラヴェルなどと共に『印象主義音楽』や『印象派』と呼ばれますが、ドビュッシー本人はそう呼ばれることを好んでいなかったようです。
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