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働かないと。
看護師になって夜勤もある私は、両親とは生活リズムが違うため、ひとり暮らしを始めていた。
もちろん辞めたことを家族には話していない。辞めたと言えば、理由を尋ねられる。それだけは嫌だった。
だから、このままひとり暮らしを続けていくためには働くしかない。
新しく務めることになった病院では、何の縁か前の病院で移動するはずだった小児科に配属されることとなった。外来ではなく病棟という違いはあったけれど。
そうして、少しずつ新しい職場や仕事に慣れたころだった。
「……矢那井、碧先生?」
思わず小さな声が口から洩れた。
佐久間って名字だったはずだけれど……
小さく呟いただけだったけれど、近くに居た看護師に聞かれてしまったようだった。
「あらあら、見惚れちゃった?
矢那井先生、素敵だものね~。優しいからつい勘違いしちゃうんだけど、誰にでも優しいのよね。でも誰がアプローチしてもなびかなくって、みんな撃沈してるわ。きっと理想が高いのね」
そうなんですね、と取り繕うように笑顔で答えたものの、胸がドキドキしている。
まさか、ここで再開できるなんて。
聞くところによると、碧先生は将来的に叔父さんの病院を継ぐために、最近になって佐久間から矢那井へと名字が変わったらしいと聞いた。
小児科の子どもが耳鼻咽喉科にもお世話になることがあって、碧先生と話をするようになっていたけれど、当然のことながら私が茉莉の友達であることは覚えていなかった。
あの時、たった一回一緒に写真に写っただけの私を覚えていないのは当然のことよね。
わかってはいたけれど、一方通行過ぎる思いに虚しさを感じている自分に苦笑する。
手の届かない人。住む世界が違う人。
あの頃からそう思っていたけれど……
それでもこの再開に心躍っていた私は、診療後にロピーのピアノを弾く碧先生の演奏をこっそり聴いたり、移動するときには碧先生が通りそうな通路を選んだりしてしまう。
少しでも近づきたい。
碧先生は誰にでも優しいと聞いても、言葉を交わすたびに「もしかしたら」の気持ちを捨てることができなかった。
思いがけない再開に、私は浮かれていたのだと思う。
碧先生との再会からしばらく経った頃、久しぶりに茉莉から連絡がきた。
ソロリサイタルをするから、ぜひ来てほしいとのこと。
碧先生とは会えば時々話をするくらいにはなっていたけれど、もっと近づくチャンスかもしれない。
そう思った私は、茉莉に頼んで隣の席のチケットを用意してもらうことにした。
「美咲、碧くんと同じ病院に勤めてるんだ!偶然ってすごいね!
コンサートぜひ来てって伝えてて」
私たちが親しいと思っているのだろう。
何の疑いもなく嬉しそうに話す茉莉に、チクリと心が痛んだけれど、あえて見ないふりをした。
碧先生は、リサイタル会場に身の濃紺のスーツで現れた。白いシャツは首元のボタンをはずして、鮮やかなピーコックグリーンのアスコットタイを纏っていた。
美しい…格好いい。
昔から中性的で綺麗な顔立ちだと思っていたけれど、年を重ねて大人の男性としての魅力が加わった碧先生は本当に素敵だった。思わず見とれてしまい、挨拶の言葉すら出てこない。
「あ、水田さん。隣の席なんだね」
見とれたまま固まっていしまっている私を見て、隣の席だったことを驚いたと勘違いしたようだった。
「は…はい」
「水田さんの制服ではない姿、初めて見たよ。この季節にぴったりだね」
今日の私は、水色で花柄のワンピースを着ていた。ひざ丈のフレアーワンピースで、袖がフリルになっている。今日は矢那井先生の隣に座るから…と、これでも精一杯おしゃれしてきたつもりだったが、会ってすぐに褒められて心が浮き立った。
「ありがとうございます。矢那井先生も素敵です。アスコットタイもお似合いになるんですね」
「ありがとう。この前、水田さん経由でチケットもらった後、久しぶりに茉莉ちゃんに連絡したら、この後に打ち上げにも来てっていうから。あまりにも普段着だと失礼だと思ってね。それにしても、水田さんが茉莉ちゃんの親友とは知らなかったよ」
「私、茉莉の発表会は毎年聴きに行っていたので、実は矢那井先生の演奏も聴いていたんです」
「そうなの?」
「はい、いつも茉莉の後に弾いていらっしゃいましたよね」
「まいったな……」
照れくさそうに笑う矢那井先生に、胸がキュンとなる。
憧れていた矢那井先生とこんな風に気軽に話せるなんて……
ドキドキする気持ちを抑えながら、努めて普通に会話をする。
コンサートが終わった後の打ち上げにも一緒に参加し―――とは言っても、矢那井先生は再開した同門の人たちとずっと一緒だったから、ほとんど会話はなかったけれど……
それでも一緒の空間に入れることが嬉しくて、矢那井先生を目で追っていたのだった。
デートなんて状況には程遠いけど、私には十分すぎる程幸せだった。
今日のことがきっかけで、これから先、矢那井先生との距離が縮まらないとも限らない。「もしかして」の気持ちが大きくなっていく。
少しずつ仲良くなれれば……その時の私は、確かにそう思っていた。
【なにもんか?】
「何者か?」をイメージした方もいらっしゃるかもしれませんが、「誰先生に習っているの?」と尋ねる時に「何門下?」と聞いたりします。
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