馬鹿にされた萌黄色の伯爵令嬢~婚約解消へのカウントダウン~
「メリル……いい加減にしてくれないかな?」
晴れた空の下の、ガーデンテラス。
綺麗に切りそろえられた明緑の髪と同じ色の目を持つ端正な顔立ちの青年は、不機嫌そうにテーブルにネクタイを置いた。
「何、この刺繍」
「何って……パトリック様のご依頼通り、蔦の刺繍ですが……」
青年の真向かいに座る、細かなウエーブがかった萌黄色の髪と目を持つ淑女がきょとんとした顔でネクタイを見つめ、答える。
明緑のネクタイには、緑色のイソギンチャクのような生々しい刺繍が施されていた。
「メリル……君の刺繍はとても丁寧で繊細で素晴らしいものだ。だから分かる。これ、間違いなく蔦じゃなくて|複数の触手を持つ緑色の魔物だよね? 何で僕のネクタイに毎回毎回、気持ち悪い魔物刺繍するの? 僕、この間もう蔦模様でいいから、って言ったよね?」
「すみません。刺してるうちに、触手の方が絶対に格好良いと思って……それでもなるべく、蔦に見えるように意識してみたのですが……」
明らかにイライラしているパトリックに対し、メリルはおっとりしている。
優雅にお茶に口を付けて答える様は、尚更パトリックを苛立たせた。
「触手だけならまだ誤魔化せたかもしれないけど、これ、中央に本体入ってるじゃないか! こんなの身に付けて人前に出られないよ!」
人前に出られない――と言っても、メリルの刺繍の腕は悪くない。
むしろ職人と言っても過言でない程細やかで見事な刺繍が施されている。
問題は、刺繍のモチーフだ。
ネクタイに刺繍されているのが《《気持ち悪い魔物》》でなければ、パトリックも『すごい!』と感嘆の声をあげて喜べるものだったのだが。
初めてパトリックがメリルに刺繍を依頼した時、メリルが魔物の刺繍をするのが好きだと聞いていた事もあって、それならと定番のドラゴンを頼んでみた。
返ってきたネクタイには、ドラゴンゾンビが縫われていた。
パトリックは自分の頼み方が悪かったかと反省し、次はガルーダを頼んだ。
次に返ってきたハンカチには、ガルーダをイメージしたゾンビが縫われていた。
そうか、アンデッドが好きなのか――と悪趣味な刺繍に引きつつも妥協してスケルトンを頼んだら、人骨取り込んだスライムを縫われた。
そして、誕生日には小さなマンドラゴラがたくさん刺繍されたスカーフが贈られてきた。
もう色々諦めて、単純な模様ならちゃんと縫ってくれるかもしれない――と僅かな望みをかけて一般的な蔦模様を頼んだ結果がこれだ。
縫える技術があるのに、頑なにちゃんと縫ってくれない――パトリックに限らずどんなに優しい人間でも一言言いたくなるだろう。
「あのねぇ、メリル……こういう事言いたくないんだけど、僕の立場も考えてくれないかな? 僕、次期侯爵なんだよ? こんなの身に付けたら皆に笑われるよ! それとも何? 誰か他に想い人がいるから、僕に嫌がらせして婚約解消されるの狙ってる?」
そう、この2人――パトリック・フォン・フィア・アベンチュリン侯爵令息(18)と、メリル・フォン・ゼクス・アルパイン伯爵令嬢(24)は婚約関係にある。
「パトリック様、私に想い人などおりません……そんなに私の刺繍がお気に召さないのなら、私以外の方に頼まれれば宜しいのでは……?」
アルパイン家はペリドット領とアベンチュリン領が接する領境にある小都市の1つを治める伯爵家であり、メリルは今いる館の主であるアルパイン伯爵の妹にすぎない。
だから本来であれば隣領の侯爵令息にこのような無礼を働くのは許されない立場なのだが――
「駄目だ! 他の女性が刺繍した物なんて身に付けたら、浮気じゃないか!!」
パトリックがメリルにベタ惚れの為、メリルの無礼は全てスルーされている。
「僕の領に恋人や夫婦が『守護刺繍』したネクタイやスカーフを贈りあう伝統がある以上、僕のネクタイの刺繍は婚約者である君に刺してもらわないと!」
パトリックが住むアベンチュリン領は、領土の約半分が『迷いの樹海』と呼ばれる程広大な大森林に覆われている。
一年のうち半年は割と平穏なのだが、もう半年――大森林に巣食う魔物達が凶暴化する時期は、森近くの街や村を行き交う旅人や商人がよく襲われる。
その為、アベンチュリン領に住まう民は皆、糸に魔力と魔除けの願いを込めて刺繍する――『守護刺繍』と呼ばれる刺繍が施されたネクタイやスカーフを想い人に贈りあう慣習がある。
守護刺繍に慣れた針子に縫ってもらった物を送る者も少なくないが、想い人の為にと自分で縫う者も多い。
今、メリルが身に付けている明緑のスカーフを飾っている萌黄色の華やかな花と蔦もパトリックが自ら刺した守護刺繍だ
が、パトリックの方は何の刺繍もされていない無地のネクタイだ。
「女性が駄目なら、殿方に……」
「同性なら良いってもんじゃない!!」
「ではフィリップ様に……手先がとても器用だとお聞きしています」
「18にもなって『父上、婚約者が気持ち悪い物しか刺繍してくれないので、僕のネクタイ縫ってください……』なんて言えるはずないだろう!?」
『デザインが気持ち悪い魔物でさえなければ、君の刺繍はとても素晴らしいのに――』それをパトリックは何度も言っているのだが、メリルの心には全く響かない。
メリルは人からの評判や賛辞なんて求めていない。
ただ自分が好きな物を好きなように縫いたいだけだ。
自分が好きな物を、同じ嗜好の人に喜んでもらえたら――と思うものの、自分の嗜好が非常にマニアックだという自覚はあるので諦めている。
『好きじゃない物を縫う気はありません』――メリルは何度もパトリックにそう言い返しているのだが、2人の主張はどちらも譲らず平行線。
メリルは正直、この6歳下の婚約者が苦手だった。
いくら見目が良くて声も綺麗で、基本的には優しく文武両道の侯爵令息でも。
人から恥ずかしく見られたり笑われるのを過度に嫌い、刺繍に色々難癖をつけてくるところはどんなプラスもマイナスにする致命的な悪癖だった。
その上、毎回自分が縫った物を回収し「やり直して」と新たなネクタイやスカーフを持ってくるパトリックの事が、メリルは段々苦手になってしまったのだ。
しかし下位貴族から婚約の解消を申し出るのは、余程の理由がないと難しい。
そのうえ、自分の大好きな趣味を頑なに譲らずこれまで数々の縁談を袖にして行き遅れになってしまっているメリルの立場は悪い。
依頼された物をその通りに縫えば、パトリックも文句を言う事なく、メリルもアベンチュリン侯爵令息夫人として今より良い生活が出来るのだろう。
しかし――
「メリル……君はとても美しいし、賢いし、優しい。僕は君と出会えて、君と婚約できて本当に嬉しいと思っている……ただ、君の嗜好と、その頑なな態度だけは本当に理解できない……!!」
パトリックの大袈裟な嘆きに、メリルは大きなため息をつく。
「パトリック様、後5ポイントです」
「……5ポイント?」
突然のメリルの謎の発言に、パトリックは固まる。
「後5回、私及び私の作品を馬鹿にしたら、婚約解消させて頂きたいと思います」
「いっ……いきなり何を言い出すんだメリル!?」
戸惑い狼狽えるパトリックを前に、メリルは数枚の紙をテーブルに出す。
パトリックが恐る恐るその1枚を手に取ると『気持ち悪い』『センスを疑う』『恥ずかしい』などといった悪口が、日付別で綺麗にまとめられていた。
もしかして――とパトリックが思う間に、メリルはまだ余白の多い紙に何処からか出した羽ペンで今言われた言葉も書き綴っていく。
「いきなりではありません。貴方がこれまで私が作った物を馬鹿にした回数を数えると、先程の言葉も含めて45ポイント……50ポイント溜まったら、価値観の相違を理由に婚約解消を申し出てもいい、とお兄様から言われました」
「突然すぎるだろう!? 何だって君はいつだってそう自分勝手」
「パトリック様。解消したくなければ後4回も私を不快させなければ良いのです」
「うぐっ……!」
私及び私の作品を馬鹿にしたら――と言った通り、自分勝手、という発言もしっかりカウントされた。
パトリックはたじろぎながら、悪口にならない言葉を慎重に探る。
「……わ、分かった。確かに、僕もこれまで言い過ぎたきらいはある。君を傷つけてしまったのなら謝ろう……だけど、僕はそこまでおかしな事は言っていないはずだ。こんな物を身につけて人前に出る身にもなってほしくて……」
「後3ポイント」
「うぐっ……分かった、僕があれこれ言うのがそんなに嫌だったなら、今後は言わない……」
ギリ、とパトリックが歯を噛み締めた音がメリルの耳に微かに届く。
「……パトリック様、どうか無理なさらないでください。貴方の仰られる通り、私が刺繍した物を身に付けたら、きっと皆に笑われますわ。でも、これが私なんです。私はこれからも自分の好きな物だけ刺し続けます。こんな私がお嫌であれば、私から婚約解消を申し出る前にそちらから申し出てください。パトリック様はお若いのですから、こんな行き遅れの女を相手にせずとも、素敵な刺繍をしてくださる素敵な女性が見つかりますわ」
その言葉はメリルの優しさであり、本心だった。だが――
「嫌だ……! 後3ポイントあるという事は、逆に言えば3ポイント無くなるまでは婚約を解消するつもりはない、という事だろう?」
メリルにベタ惚れのパトリックは、食い下がった。
言葉の割に不安げな6歳下の侯爵令息に、メリルは哀れみを感じて、
「ええ、まあ……本当に言わないのであれば私も文句はありません。パトリック様は見るに耐える容姿をしていますし、アベンチュリン邸は国中の小説や図鑑でいっぱいだと有名ですから、その本を好きなだけ読めると思うと……できる事なら断りたくありませんわ」
「そ、それなら」
「でも」
目に強い光が宿ったパトリックを、メリルは真剣な目で真っ直ぐに見つめ返す。
「……パトリック様。私は自分が作った物を批判される事に疲れました。素敵な物が出来たと思ってお見せする度に『これは素敵じゃない』『気持ち悪い』『こんな物を縫う人間の感性を疑う』と逐一否定される生活は、例えその他がどんなに恵まれていようと御免です」
「す、すまない……」
初めて見るメリルの厳しい表情と厳しい声に、パトリックは反射的に謝罪の言葉がまろびでる。
メリルはそれ以上追撃の言葉を重ねず、手元のハーブティーにそっと口をつけた。
「と……とりあえず、今日はもう帰る」
「そうですか、それではお見送りを……」
「いや、今日はいい……また失言してしまいかねない。だけどメリル、君が言い出したんだ。0ポイントにならない限り、僕が学校を卒業したら絶対結婚してもらう!」
この期に及んでも小物の風格を漂わせるパトリックを、メリルは立ち上がらずに見送る。
姿が見えなくなった後、しばらくして馬が走り出す音が聞こえた。
音がする方を光のない目で眺めるメリルを、大きな影が覆った。
「どうだった? パトリック様は大人しくなったか?」
「ええ、まあ……私が悪口をカウントしているとは思ってなかったようで、とても驚かれてましたわ」
「そうか……まあそうだろうな。俺もお前が悪口カウントしてるとは思ってなかった」
呆れたように呟きながら、先程までパトリックが座っていた椅子にどっかりと座ったのは、メリルより10歳上の兄、ゴーディだ。
金髪をオールバックにした暗い緑の目を持つ30代半ばの紳士は、苦笑いを浮かべながらも優しい眼差しで妹を見据える。
メリルはとても美しく可愛らしい風貌から、これまで色んな男に想いを寄せられた。
しかし、どの男もメリルの内面――ダークで陰湿な魔物の刺繍を好み、それを頑なに譲らない面を知って去っていく。
ただ去るだけならいいが嫌味を言ったり、笑い者にしたり、罵倒したり――無作法な男達に有る事無い事広められた事と結婚の適齢期を過ぎた事もあって、メリルはここ数年すっかり縁談から遠ざかった生活を送っていた。
そんな生活が変わったのは、半年程前。
自領を治めるペリドット侯から『アベンチュリン家の令息が、貴殿の妹を見初めたらしくてな。今メリル嬢に特定の相手がいないのなら、一度会ってみてくれんか』と言われたゴーディがメリルとパトリックを引き合わせた事がきっかけだった。
その時のパトリックは実に悪口を言う気配など微塵もなく、メリルに熱心に愛を伝える好青年だと兄妹は判断して、婚約を結んだ。
そしてパトリックが毎週メリルに会いにアルパイン邸を訪れるようになった。
悪口が始まったのはそこからだ。
ゴーディは倍も年が離れた自分がいては話しづらいだろうと考え、パトリックがここにやってくる時は執務室に籠もっていたのだが、開けている窓からはよく彼が妹の作品を貶す言葉が聞こえてきた。
若さ故の過ち――と言うには少々程度がすぎると思ったので、先週『あいつの悪口が50回超えたら婚約解消していいぞ』と半ば冗談のつもりで言った後、すぐに妹が紙とペンを持ち出して一気に書き出した時は流石に引いた。
そこまで言った妹の婚約者と、それを一言一言全部覚えている妹の記憶力に。
『これまでの合計で42回です。後8回と思うと少し気が軽くなります……ありがとうございます、お兄様』
ゴーディは半年間で既に42回悪口を言ってるパトリックに更に引くと同時に、焦った。
『はい、50回言われたから婚約解消!』と突然言われて、反省や挽回のチャンスも無く突き放されても、パトリックは納得もできないだろう。
最悪、ペリドット領とアベンチュリン領の外交問題になりかねない。
ペリドット侯とパトリックの父であるアベンチュリン侯の仲が良いという事もあり、基本的にゴーディは2人の仲が上手くいってくれれば、と考えている。
何より毎週、メリルと1、2時間話す為だけにこんな片田舎の小都市に往復1日かけて馬を走らせる――それは並大抵の愛ではない。
だからこそ年若い青年の過ちに、少しくらいチャンスを上げたいとも思った。
それに、メリルが頑なに自分の好きな物しか縫わなくなったのはパトリックのせいではない。
何人もの男達から幾重にも積み重ねられた否定の言葉が、メリルの心を一層頑なにしてしまった。
もしかしたら自分や親がメリルの刺繍を受け取った時の、一瞬の表情の変化すら妹を傷つけていたのかもしれない、とも思う。
刺繍というものは数時間で出来上がるようなものではない。
丁寧で繊細なものであればあるほど何日、何十日と時間をかけて作り上げられていくものだ。
特に妹の刺繍はモチーフはともかく、とても丹精込められた物――だからこそそれに対する罵倒は侮蔑の視線はしっかり心に刻まれるのだろう。
些細な嫌味もきっちりカウントしている辺り、それは間違いない。
今の状況はパトリックだけが悪い訳では無い。同情の余地はある。
隣領や主との関係も友好に保ちたい。
ただ、メリルは若くして亡くした両親が残してくれた唯一の家族。
嗜好は理解できなくても、ゴーディにとっては目に入れても痛くないほど可愛い妹であった。
これ以上10歳下の可愛い妹の心を傷つけるくらいなら、例え主の命令でも従いたくないという気持ちと、単純に50回も悪口を言う青年に可愛い妹を渡したくもないという兄心がある。
幸い、ペリドット侯は恋愛結婚だ。
『50回も悪口言われたので、婚約解消させてほしい』と言えば分かってくれる気がする。
領主として、男として、兄としてゴーディが出した結論は――
『……45ポイント貯まったら、警告くらいはしてやれ。彼はまだ若いし口も悪いが、たぶん根はそこまで悪くない。警告をきっかけに心を入れ替えるかもしれん』
苦肉の策でゴーディはパトリックにチャンスを与える事にした。
未熟ではあるが、けして愚かではない――はずだと願って。
「現時点で47ポイントです。この調子だと来節には婚約解消できそうですわ。でもそうしたら、うちの評判が……」
「安心しろ。気持ち悪い魔物の刺繍をする娘の家として、十分評判悪くなってる。今更家の評判を気にするな」
兄の心強い言葉を支えに、後3回、という回数を糧にメリルは気合を入れる。
メリルも、最初からパトリックが苦手だった訳では無い。
会った当初は彼の容姿も声も見るに耐え、聞くに耐えるものであったし、自分に愛を訴えコロコロと表情と声が変わる姿は、見ていて全く飽きが来ない――そう思って婚約を受け入れた。
だが、その後のネクタイの刺繍による難癖が続いて婚約を受け入れた事を後悔した。
これまでの男と同様、他の面がどれだけよろしくても自分の好きな物を否定してくるその態度だけは飲み込む事が出来ない。
一緒になったら、自分の好きな物が潰される――自分が駄目になってしまう気がする。
(後3回……後3回だけ)
兄から言質は取った。
後3回悪口言われたらすぐ婚約解消してまた自由に好きな物を縫って過ごさせてもらおう。
どうせ自分の嗜好など誰も分かってくれない。
兄ももう、私を嫁がせるのを諦めるだろう――
(自分の好きな物に難癖つけてくる人と結婚するより、一人でいた方がずっと気楽だわ)
のんびり穏やか隠居生活を夢見て、メリルは立ち上がった。
「後3回悪口言ったら婚約解消? 面白い事をおっしゃいますわね、メリル嬢も」
木々に囲まれたアベンチュリン領の主都、サイ・ヴァルトにあるアベンチュリン邸にて憔悴しているパトリックを見るなり、彼の妹であるパトリシアは何があったのか問いかけた。
兄と同じように綺麗に切り揃えられた明緑の髪と同じ色の瞳を持つ妹は、一連の話を聞かされると明緑色の鉄扇を大きく広げ、クスクスと笑いながら感想を述べる。
「不意打ちがすぎる……せめて10回の猶予が欲しい……」
パトリックはテーブルに突っ伏したまま、力なくぼやく。
その姿がまたパトリシアの笑いを誘った。
「ほほほ……何故悪口言ってくる相手に猶予を持たせねばならないのです? むしろ微塵の猶予も無く、スッパリ兄上を突き落としてくだされば面白かったのに……チャンスを与えるなんてメリル嬢も甘い方。それにしても、ああ……普段から人の物を馬鹿にして生きてらっしゃる哀れな兄上の惨めな姿を見ていると、愉快でなりませんわねぇ……!!」
パトリシア自身、刺繍ではないが自分が同じ嗜好を持つ者向けに書いていた小説をパトリックに勝手に読まれた挙げ句、色々難癖つけられた事があるので、今の兄の姿は滑稽でしかなかった。
仲がそれほど宜しくない自分《妹》の作品を否定するならまだしも、大好きな相手の作品まで容赦無く否定した挙げ句に拒絶されて憔悴しているのだから、もう笑うしかない。
『作る度に貴方が毎回毎回難癖つけてくるので、もう何も縫えなくなりました』と相手に泣かれて徹底的に拒絶されなかった事が惜しいとすら思う。
それでも『一度婚約すれば家族同様、相手を批判し続けてもずっと関係を続けられる』と思っていたらしい兄に見事な一撃を決めたメリル嬢に内心、盛大な拍手と声援を送る。
いつもならここで『こんな落ち込んでいる僕にそんな声をかけるお前の神経を疑う』などといった兄妹喧嘩《嫌味の応酬》が始まるのだが――パトリックはうつむいたまま顔を上げない。
そんな、いつもと違う兄の様子にパトリシアも拍子抜けして鉄扇を閉じた。
「兄上……相手の好きな物や苦手な物を受け入れられない、見て見ぬふりも出来ないようでは、今後結婚できても近いうちに破綻してしまいますわ。兄上はいつも見栄をはって好き勝手やってますけれど、恋愛ばかりは自分勝手ではいられませんのよ」
パトリシアは僅かながらの情を見せた後、クスクスと笑いながら去っていく。途中、高笑いまで響き渡る。
そんな妹の罵倒と助言と高笑いを聞いていたのか、いないのか――憔悴したパトリックは机に突っ伏し、ただただメリルを想う。
メリルは見た目も、声も、雰囲気もパトリックの理想だった。
そう、嗜好のセンス以外はまさにパトリックにとって理想の女性なのである。
美しい萌黄色の髪と目も、優しい顔立ちも、おっとりした声も。
好きなお茶やお菓子を食べている時の微笑みも。
きょとんとしている顔だって、誰より可愛い。
半年前のパーティーで見かけた時に目と耳と心を奪われた、まさに運命の相手――に今、辛辣にフラれかけているのだ。
他でもない自分自身から放たれた、悪口のせいで。
(まさか、そんなに気にしていたなんて……)
パトリックの口の悪さは、家族と気心のしれた人間限定である。
そしてこれまでその口の悪さを真正面から咎められた事はなかった。
妹だけは真正面から言ってきたが、妹も相当口が悪いのでお互い様だと思っていたし、メリルも結構ズバズバ言ってくるからお互い様だと思っていた。
幸い、もう遅いと言われた訳ではない。後3ポイントある。
手遅れではない。今後一切彼女の趣味嗜好に口出ししなければいい。しかし――
(自分や他の人間が差した刺繍を身に付けて、バレるのは嫌だ……かと言って、これ以上無地のネクタイを付けて『まだ婚約者に刺繍してもらえないのか?』と馬鹿にされるのも嫌だ……)
ネクタイやスカーフ、ハンカチなどの刺繍にはパッと見で目につかない場所に縫った者の名、あるいはブランド名を記名する。
人が縫った物に他人の名を刺繍するのは縫った者に対して最大の冒涜になるし、仮に自作自演したところで、それを見る度に自分が惨めになるのは目に見えている。
他人視点でバレるのも嫌だが、パトリック自身、そんな後ろめたい気持ちを持ちたくなかった。
1つだけでいい。他の誰でもない、メリルが刺繍した『気持ち悪くないネクタイ』が欲しい――そう思うのは、贅沢なのだろうか?
そして、その日の夕食時。
壁一面が食材や料理の図鑑や食べ物を主題とした小説に覆われた本で埋まっているアベンチュリン邸の食堂に数人のメイドが控える中、この家に住む親子三人が珍しく顔を合わせた。
「パトリック……お前がどうしてもと言うから他領の令嬢との縁談を組んであげたのに、相手に難癖を付け続けた挙げ句、婚約解消寸前なんて……一体どういう事ですか……?」
目の隈が酷く、侯爵という割にはあまりに威厳のない――パトリックやパトリシアと全く同じ明緑の髪と目を持つ、やや細身で猫背気味の父親――フィリップが珍しくパトリックに話しかける。
パトリックは、人と目を合わさないように視線を落としてボソボソと喋る父親の事があまり好きではなかった。
「……彼女が刺繍した物があまりに気持ち悪くて、身につけると皆から馬鹿にされると思うと、恥ずかしくて……」
「はぁー……馬鹿にしたい奴は好きに言わせておけばいいじゃないですか……」
「父上は国中の人間から『凡人侯』だと馬鹿にされて、悔しくないんですか!?」
父親の他人事な物言いにパトリックは思わず声を荒げる。
一体誰のせいで自分が学校で『凡人侯の息子』だと陰口叩かれていると思っているのか。
日夜努力して勉学でも訓練でも学年首位の成績を収めているのに、何故自領の民に馬鹿にされなければならないのか――それは父親が暗くて陰気で特に突出した才能もない凡人だからに他ならない。
そんな怒りを込められ荒ぶる言葉に、フィリップは全く動じない。
「……悔しくはありませんね。馬鹿で使えない低能な人間だと思われていた方が、期待もされず余計な仕事も持ち込まれずにすみますから……」
「僕は父上とは違う。侯爵になってこの地を治めていく以上は恥ずかしくない、笑われない存在でありたい……!!」
息子のまっとうな怒声に、父親はまた一つため息をついた後、
「そんな、まるで私が恥ずかしい存在みたいに……パトリック、高い地位にある人間だからこそ愚かな弱者のフリをしていた方がいい時もあるんです……それが分からないうちは、お前は私よりずっと恥ずかしい存在ですよ、ええ……」
「じゃあ父上はこれをつけてパーティーに出られますか!?」
恥ずかしい父親に恥ずかしい存在だと言われて耐えきれなくなったパトリックは勢いよく立ち上がり、コートのポケットに突っ込んでいたグリーンローパーのネクタイをフィリップに突きつけた。
フィリップはネクタイを手に取り、両面を確認した後パトリックに返す。
「貴族の令嬢が刺す刺繍で、そこまで丁寧に刺された物はそうそうないと思いますよ……メリル嬢が時間と手間を込めてこれを刺し、お前に託したのだという事は分かります……まあ、いくら想いが込められていようと価値がある物だろうと、自分が嫌だと思う物を身につけるのは絶対嫌ですけどね……」
「ほら! 父上も嫌なんじゃないですか!!」
「そりゃ嫌ですよ……私はお前の婚約者に露ほどの興味もありませんから……お前のメリル嬢への愛も、お前のプライドを超えない程度の想いだから嫌だと思うんじゃないですか……?」
ボソボソとパトリックを煽る言葉を述べた後、表情ひとつ変えずにフィリップは食堂を去っていく。
パトリシアの(恥ずかしい父から『自分より恥ずかしい』って言われた兄に笑顔しか作れない)と言わんばかりの嘲笑に耐えかねて、パトリックはドカドカと足音荒く食堂を出ていった。
絶体絶命のパトリックに転機が訪れたのは、それから10日程過ぎた頃だった。
0ポイントになってしまうのが怖くて、先週の休みはメリルに会いに行けなかった。
今週は行かなければ。嫌われたくなくて行かない、というのも何か違う気がする。そもそも、メリルに会いたい。
パトリックは陰口叩いてくる同級生達や無気力な父親、辛辣な妹に傷つけられた心の傷を週に1度メリルと数時間過ごす事で癒やしていた。
刺繍以外の話をしている時は上手くいっていたのだから、これから先刺繍の話を一切しなければいい――そう思うものの、なかなか決心できない。
せめて一つだけ。メリルの、まともな守護刺繍が施されたネクタイかスカーフかジャボでももらえたら――
明緑色の家具を基調にした自室でパトリックが頭を抱えていると、ノック音が響く。
ドアを開けると、パトリシアが微笑みを浮かべて立っていた。
「兄上、今セレンディバイト公がいらっしゃってますよ。私、先程ご挨拶させていただいたのですが……あんな物を襟元につけてなお様になるあの姿、やはり英雄は父上や兄上とは格が違いますわね。後でセレンディバイト公の髪の毛拾って細かく切って兄上や父上に飲ませたら、少しは兄上達の捻くれた性格も変わるのでしょうか……」
そういう発想に至る妹に、捻くれた性格とか言われたくない――と、パトリックは心底思った。
それと同時にセレンディバイト公が今、この館にいる――という事実にずっと沈んでいた心が久々に浮かび上がる。
セレンディバイト公は若くして国に巣食う魔物を屠り敵国の侵入を阻む、このレオンベルガー皇国の若き英雄である。
黒い衣服を纏い黒の槍を振り回す眉目秀麗、智勇兼備の黒の公爵に憧れる者は老若男女問わず多い。
パトリックもパトリシアも、皇国最強の英雄に強い憧れを抱いていた。
パトリックは父親の『皇都でトラブル起こされると困りますので……』という方針で皇都ではなく自領の魔導学校に通っている。
その為皇都に行く機会は滅多になく、セレンディバイト公もこの領地に来たとしても魔物討伐を終えてもここに寄らずに皇都に帰っていく事が多い。
最近は皇都の辺りが色々と騒がしく、セレンディバイト公も色々あったようだが――年に一度会えるかどうかの英雄にひと目会いたい、とパトリックは応接間のドアをノックした。
父親の『どうぞ』という合図でドアを開くと、壁一面が本棚になっている応接間で背中を丸めた父親と、黒いジャケットスーツに漆黒のマントを羽織った黒髪灰眼の美丈夫が、ローテーブルを挟んで向かい合うようにソファに座っていた。
「ああ……パトリック卿か。久しいな」
国の英雄に声をかけられたにも関わらず、パトリックは英雄の襟元についているブローチに目が釘付けになる。
(何だあれ……)
恐らく銀で作られたそれは、耳が丸まった猫のようで――背中からヨレヨレの細い棒らしき物が出ていて。
猫の目の部分に黒い石がハマっているところから、恐らくはセレンディバイト家に加護を与えると言われる|蝙蝠の羽を持つ漆黒の大猫を象った物、なのだろう――とパトリックはギリギリ好意的に解釈した。
だが、その猫もどきのブローチは形も歪な上に、平民が少し気取った場でつけるような、下級貴族が普段遣いしそうな安っぽさが否めない。
そして何か熱い物のそばにでも置いたかのように耳や蝙蝠の羽だっただろう部分はダラりと溶けて固まったように垂れている。
きっと誰もが眉目秀麗で威厳漂う英雄の襟元を見て思うだろう。
(何だあの変なブローチ……)と。
実際、パトリシアも「あんな物」と称していた。
「あの……付かぬ事をお聞きしても宜しいですか? そのブローチは一体……」
妹は華麗にスルーしたが、パトリックは国の英雄が何でそんな物を付けているのか気になった。
心に思った事を良い事も悪い事も言いたくなってしまうのがパトリックの悪い癖だが、流石に国の英雄相手には一応言葉を選ぶ。
「これは漆黒の大猫を象ったものだが……」
「すみません……息子は人に悪口言うのが癖なんですよ……そのブローチの歪さが気になって仕方ないんでしょう……謹む事を知らない息子で本当にすみませんね……」
「父上! 僕は歪だなんて一言も……!」
余計な一言を添える父親に怒りつつ、パトリックは恐る恐る英雄の方を見る。
英雄は己がつけているブローチを外して、じっと眺めている。
「……確かにこれは安っぽいし、所々溶けてしまっている。端から見ればかなり歪な物に見えるだろうな」
さして気を悪くした様子もなく語る英雄に、一層パトリックの好奇心が煽られた。
「あ、あの……何故そのような物を見に付けていらっしゃるのですか?」
「これは私にとって、とても大切な物だからだ」
「でも、笑われ……」
「私はこのブローチを身に着けていて笑われた事など一度もない」
真っ直ぐにパトリックを見据える英雄の眼力に、パトリックは何も言えなくなる。
気を悪くさせてしまった、と足が震えるパトリックをよそに、英雄は言葉を続けた。
「……パトリック卿、笑われるのは身に付けている物がダサいからではない。それを身に付けている本人が見下されているからだ」
辛辣で鋭い言葉がパトリックの心に突き刺さる。
彼自身が一番認めたくなかった事実を容赦なく突きつけられ、完全に言葉を失う。
「現に貴公の父親も身につけている物は全て一級品だが、分不相応だと馬鹿にされている。逆に強者はダサい物を身に付けていたとしても笑われる事はない。自分より強い者を馬鹿にすれば、逆に自分が笑われるからな」
「パトリック……これが強者の考え方です。貴方も強者を目指すなら、婚約者の嗜好をいかに捻じ曲げるかより、自分が強くなって周囲を黙らせる事を考えた方が良いと思いますよ……」
眼の前で思いっきり自分を馬鹿にされているのに一切動じず息子に説教してくる父親に引きつつ、パトリックはうつむいて応接間を出る。
入る前の高揚感は、どこへやら。
格の違いを見せつけられた羞恥心や劣等感が、ずっしりと心にのし掛かってきた。
自分の部屋に戻っても微塵も心は軽くならず、引き出しにしまっていたネクタイを取り出す。
それはメリルが一番最初に刺繍してくれた、ドラゴンゾンビのネクタイだった。
圧倒的な力で君臨する国の英雄なら、このネクタイと付けても見事だと何だと褒めそやされるのだろう。
それに引き換え――自分は覇気も威厳も無い、侯爵の中でも凡人と馬鹿にされる、誰にも誇れない恥ずかしい侯爵の息子。
そんな父親からも諭されてしまうくらいちっぽけな自分が、こんな気持ち悪い魔物の刺繍のネクタイなんてしたら、絶対に馬鹿にされる。
馬鹿にされる――けど。
『……パトリック様、どうか無理なさらないでください。貴方の仰られる通り、私が刺繍した物を身に付けたら、きっと皆に笑われますわ。でも、これが私なんです』
(メリル……)
自分が馬鹿にされるのが嫌だから、メリルを馬鹿にするのか?
これ以上メリルを傷付けるのか?
好きな物しか縫いたくない、という彼女に無理を言って――悲しませるのか?
本当に恥ずかしいのは――自分の評判を貶めたくないあまりに好きな人の好きな物を貶し続けた、自分自身だというのに。
まだ彼女にちゃんと謝れてもいない癖に、自分がいかに周囲から馬鹿にされないか、メリルに嫌われないか、『自分』の事ばかり考えて――
数十秒ほど葛藤した後、ネクタイをギュッと握りしめたパトリックは先程までよりずっと力強い足取りで自室を後にした。
アルパイン邸にパトリックが来なくなって、1節が過ぎた。
このまま学校を卒業するまで来ないつもりだろうか?
それならそれでいいか――とメリルは静かになった毎週末に少し寂しさを懐きつつ、何も言われない日々を謳歌していた。
が、その日はいつもと大分違った。
「メリル、お前に刺繍の依頼が来たぞ!」
驚いた様子のゴーディが2通の封書を持ってメリルの部屋を訪れる。
「私に……刺繍の依頼?」
メリルが意味が分からない、と言いたげに言葉を反芻すると、ゴーディは詳細を語りだした。
「どうも最近、パトリック様がお前が刺繍したネクタイやスカーフを普段遣いされるようになったらしくてな……アベンチュリン領の貴族達の間で話題になっているそうだ。まあドラゴンやグリフォン、ガルーダならまだしもドラゴンゾンビにローパーやマンドラゴラ、骨取り込んだスライムなんて刺繍なんてする奴はそうそういないからな……お前と同じ嗜好を持つ貴族達に刺さったらしい」
メリルは確かにそれらの魔物を縫った記憶がある。
兄から手紙を受け取ると、確かにそこには自分の刺繍に対する称賛が綴られていた。
そしてバジリスクのハンカチ、ヒュドラのタペストリー――どちらも期限はいつでも良い、という言葉と結構な額の支払額が記載されている。
メリルは自分の心が踊るのを感じた。
そして、今まで体験した事のなかった感動が込み上げてくる。
自分の作品を認めてくれる人達は確かにいるのだという喜びと、例え人前で身に付ける勇気はなくても、家でひっそり楽しみたいと思うくらいには自分の作品を求めてくれる人がいる喜び――
初めて体感する、人に認められる幸せ。
心跳ねる気持ちが抑えられず満面の笑みを浮かべるメリルと、そんな妹に心から良かったと思うゴーディのところに、一人のメイドがやってきた。
「パトリック様がいらっしゃいました」
メリルがパトリックに婚約解消のカウントダウンを告げた時と同じ、晴れた空の下のガーデンテラス。
だがあの時と違うのは、パトリックが無地のネクタイではなく表情豊かな小さなマンドラゴラがいっぱい刺繍されたスカーフをしている事。
毎回回収しては新しいネクタイやスカーフを置いていかれるから、てっきり捨てられているのだとメリルは思っていた。
だが、パトリックはちゃんと全部保管してくれていたようだ。
それだけでもメリルは彼を見直したが、続く言葉でそれは確固たるものになった。
「……僕は、好きな人のセンスを恥ずかしいと思う事自体が恥ずかしい事なのだとようやく気づいた。僕は君が縫ってくれた物を身に着けても恥じない、笑われない人間になる。メリル……これまで君の好きな物に難癖をつけ続けて、本当にすまなかった」
恥ずかしそうに謝った後、深く頭を下げるこの青年は、本当にパトリックだろうか?
あまりの変わり様に一体何があったのか――流石にメリルも驚いたが、メリルはパトリックと違って、気になった事をあれこれ追求する性格ではない。
ただ、彼が彼自身の非を認め、自分が縫った物を受け入れて身につける――彼が心入れ替えたのが分かっただけでメリルは満足だった。
「メリル……刺繍なんだが、その……君が縫ってくれた物だから全部身に付けたい気持ちはあるんだけど、グリーンローパーは流石に恥ずかしくて……」
「それではブルーローパーを」
「メリル……前々から思ってたんだけど、もしかして君は僕が嫌いなのかな……?」
その言葉を1節前に言われていたらメリルは否定しなかっただろう。だが――
「いいえ? 苦手だっただけです。まあつい先程、好きになりましたけど」
「えっ……い、今なんて……!?」
「ローパーが嫌だというのであれば深海の大蛸にしましょうか」
「わ、分かった……クラーケンなら頑張れる」
メリルの、少しだけ温情を出した言葉にパトリックは頷く。
その緊張した面持ちながら顔が赤くなっているのを見ると、先程のメリルの発言を聞き逃した訳では無さそうだ。
メリルは分かっていた。自分のセンスはけして褒められた物じゃない。
そしてパトリックは自分のセンスを好んでいる訳でもない。
それでもパトリックはメリルのセンスを背負って表に出る事を決意した。
笑い者になってでも、恥をかいてでも、メリルが贈った物を身につける――パトリックのプライドを捨てた不器用な愛は、メリルの心に大きく響いた。
(私が縫った物を公の場で身に付けた方は初めてですわ……)
これまで甘い言葉やプレゼントで愛を示してくる男性は今まで山のようにいた。
だが、メリルが刺繍した物を身に着ける人間はいなかった。
兄のゴーディですらプレゼントした単眼の魔物のジャボを自分の前で一度身に付けたきりで、公の場で身につけた事は一度もない。
自分が刺繍した物を、公の場で身に着けてくれる人がいる――それはメリルにとって初めての感動だった。
(私の為に笑い者になる覚悟までして。それ程までに私を愛し、離れたくないと思っている……そして私の物を本当に良い、と言ってくれる人の存在まで教えてくれた)
そう考えると苦手だったはずのパトリックが、急激に愛しく思えてくる。
「……負けましたわ、パトリック様」
「えっ?」
「ポイントがマイナスだけではパトリック様が気疲れしてしまいますわね。プラスの出来事があった場合は増やすようにします」
「メリル……! ありがとう……!! 僕嬉し」
「後8回、私が嫌だって思う事をしたら本気で婚約解消しますし、結婚後でも離婚します」
「えっ思ったよりプラスの量が少な」
「後7回」
「ぐうっ……!!」
パァッと明るくなったかと思うとシオシオにしょげて愚痴り、容易く黙らせられる――普通の女性なら、あまりこんな男に惹かれないかもしれない。
だがメリルの男の趣味は嗜好同様、一般の女性達それとは少し変わっていた。
見目は見るに耐えるものであればそれでよく、地位にも然程興味はない。
能力だって、別に人より突出しているものが何一つなくても良い。
そんな些細な事より、自分の為に苦手も恥もプライドも乗り越えてくれるほど愛してくれる人がいい。
自分のセンスを堂々と受け入れてくれる人がいい。
だから今、パトリックはメリルにとっての特別――自分の趣味を馬鹿にしてくる男達より、ずっと価値のある存在になったのだ。
頼りなくて、口が悪くて、からかい甲斐のある――自分のセンスごと受け止めてくれる、どうしようもなく可愛い人に。
「……心配しなくても侯爵夫人としてパトリック様に恥をかかせない立派なクラーケンを縫い上げてみせます。私も、貴方に嫌われたくなくなりましたから」
「えっ……えっ、本当……!?」
「ええ、本当です。パトリック様が後7回、嫌な事を言わずに訓練や勉学に励まれてもっと素敵な方になられたら、もっと好きになってるかもしれません」
それはメリルの素直な気持ちだった。自分の作品を身に着けてくれるこの人を馬鹿にされたくない。
パトリック自身が願う『愛する人が作ってくれた物を身に着けても誰にも馬鹿にされないような人間』になってほしいと願う。
メリルがクスクスと笑う。心から笑う可愛い笑顔は、パトリックの心に響く。
ああ、もう、この笑顔を見られるならネクタイにクラーケンでも何でも刺繍されてもいい――とパトリックが幸福の絶頂に至った、一節後。
『クラーケンにリアリティを持たせたいから本物のタコが見たい』と言い出したメリルに遠い海の方までパトリックが付き合わされる事になるのはまた、別のお話。
(完)
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